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一緒にいる、一緒に流れる

10月の訪問の2日目。ちょうど、静岡文化芸術大学の講義を終えてみんなで車で戻ってきたあとだった。些細なことからちょっとしたトラブルが起きた。一人の利用者が何かに腹を立て、怒り始めたのだ。

スタッフがそれをなだめようとしたのだけれど、一人の不機嫌が周囲に次々に伝播し、次にまた別の人が腹を立てて椅子を蹴ったり、また別の人が今度はイライラし始めてしまった。いつもは穏やかな空気が流れているはずのたけし文化センターが突如険悪なムードに包まれた。

なんとかスタッフが対処して数人をなだめ、送迎車に乗せてことなきを得たのだけれど、室内にはイライラの余韻が残り、利用者の中には、家に帰ろうという気すら起きず呆然としてしまった人や、怒りが収まらないという感じの人もいた。

事の推移を見守るしかなかったぼくは、速まった鼓動を感じつつ、自分を落ち着けるようにして「気にするな、大丈夫だ」と肩を叩いてそばの人をなだめることくらいしかできなかった。レッツを訪問するようになってもう半年以上になるけれど、ぼくにとっては、これが初めての「騒動」だった。

些細なことで怒って豹変したようになってしまい、それがなかなか切り替えられない。それもまた彼らなのだと思った。けれど、不思議と「障害があるからだ」とは思わなかった。彼らの普段の姿を見ているからかもしれない。いや、「普段の姿とそうでない姿」という風に区別してしまうのもよくない。どちらも彼らであり、全部あって「個」なんだよなと思い直した。もしかしたら、不可分の一面なのだから、こういうことはしばしば起こり得ることなのかもしれない。

それを薬で抑えようとしたり、訓練してコントロールしたりしようとすれば、安全に管理できるかもしれないけれど、その人のいい部分も抑えてしまうことになるのだろうか。もちろん、その苦しさが大きければ投薬は必要であり医療が介入すべきなのは承知だが。

けれどもレッツは、利用者の表現を守ろうという法人だ。トレーニングなどをすることなく、過度に管理することなく、その人が「いたいようにいられる」空間を作ろうとしている。

表現とは、「それがしたい」という内なる欲求から生まれてくるものであるだろう。極めて内発的なものだ。そして、その「たい(欲求)」の根っこには、形として現れる前の原初的な何かがあるような気がする。言うなれば「表現の水源」みたいなものが、だ。

水源は地下にあってぼくたちには見えない。そして、水源から流れてくる水がどのように表に出てくるかもわからない。その流れは、本人の特性だけでなく周囲の環境にも影響される。ハッピーなせせらぎとして出てくるかもしれないし、濁流として出てくるかもしれない。

リョウガくんはおやつを食べると決まってルーティンがはじまる

水源が表に出てきたときに周囲の人間できることは、一緒に流れることだけかもしれないなと、この日の騒動を見て思った。もちろんその流れが理不尽なものであれば、スタッフだって「もうやめてくれよー」みたいに感情的になってしまう場合もあるだろう。

けれど、この日の騒動に対応していたスタッフの皆さんの姿からは、ダメなものはダメだと説きながらも、その人の存在や、怒ってしまったことそのものを否定せずに、共に流れてみて、少しずその流れを変えていこうという姿勢が見えた。そういう関与の仕方をしていた。

それを見てぼくは、レッツの支援とはまるで「治水事業」みたいなものだなと思った。

と言っても、コンクリートの堤防で固めるのでも、強靭なダムを作って制御するのでもない。レッツの支援は、一緒に流れて楽しみつつ、それが溢れてしまったときは遊水池に誘導し、これはダメだと思うぞと率直に思いをぶつけながらも、暴れ川のような川も「お前すげえな」ってポジティブに面白がって一緒に流れていくようなスタイル。川そのものではなく、周囲にある動植物の生態系を整えたり、その川と人の関わりを増やし、周囲の環境をつくることで、海までの流れを作って減災していくような。

今まではなんとなく、その過激な企画や表現行為こそ「レッツらしい」と感じていた。けれど、この日の騒動を見て、レッツの活動の真髄は、むしろ慎重に組み立てられている日常の「環境整備」のほうにあるのかもしれないと思った。

ぼくにもある困難

まだ「表現」とは呼べない水源が守られてこそ川は生まれる。水源は、誰も侵すことのできない領域だ。そしてその水源には間違いなく「水」が存在している。障害者だろうと健常者だろうと同じ「水」に変わりはない。

ぼくにも水は流れている。その水は海に至るまでにしばしば暴れる。ぼくもイライラを我慢できないタイプだ。顔に出るし、気に触ることが起きると「もの」に八つ当たりしてしまう。20代の頃はうまく感情をセーブできずケータイやメガネを破壊したことが何度もある。今では多少は自分で流れを制御できるようになったけれど、基本的にはそう人間は変わりようがない。だから、レッツのメンバーを見て「何やってんだバカヤロー」とは言えない。

怒りが爆発してしまった彼は、かつてのぼくのように、自分で自分の流れを制御できないだけかもしれない。しかも彼らは、自分で自分の気持ちをうまく言葉で表現することができない。そのもどかしさゆえに水を溢れさせることしかできないのかもしれない。自分で修復工事をすることも難しい。一旦溢れてしまったら、応急工事を受け入れながら、溢れ出る水が収まるのを待つしかない。

一方ぼくは言葉で説明できるのである。ケータイを投げ、メガネを破壊するだけでなく、言葉でも悪態をつくわけだから控えめに言って最悪だ。言葉を持っているからこそむちゃくちゃ始末が悪い。そういうぼくは果たして「健常」なのだろうか、彼らの「障害」とはなんだろうかと考え込んでしまった。

レッツの支援とは「共に流れる」ことではないだろうか

レッツに来るようになってから、健常者と障害者の「違い」ではなく、「ぼくも同じなのでは」と感じることの方が圧倒的に多いことに今更ながら気づいた。

いつもブツブツ何かをつぶやいている人にも、ずっと室内を徘徊している人にも、「こいつ変だな」と思うことはほとんどなく、むしろ、彼らのどこかに自分と似たものを見出してしまうし、彼らと一緒に時間を共にしていると、思わず「それな!」と納得できてしまうことがある。健常と障害の境界線は実に曖昧だ。

リョウガくんはいつも説明のつかない言語を声に出している。「おーうぇいん!」「ゔぇーーむ!」「ましけめーーん!」といったあんばいに。ぼくはちょくちょくそれを真似する。いつもリョウガくんが先に発声してからぼくも真似するのだが、慣れて来るとその繰り返しを予測して同じタイミングで発声できることがある。二人揃って「ましけめーーん!」とユニゾンが決まった時などは絶妙に嬉しい。

カワちゃんがゲップをしてゲラゲラ笑っているときはぼくもゲップするし(この件ではレッツのみなさんに迷惑をかけまくっている(汗))、こっちゃんが童謡を歌った時には心の中で歌を歌うし、ぼんやりと外を眺めているときはぼくも眺めてみる。同じことをして、そこはかとなく「共事」してみるわけだ。すると、なんとなくその人に近づけた気がする。ぼくも「それでいいよ」と許され、受け入れてもらっている気がするのだった。

歌っているのは、どちらなのだろう

レッツの誰かと一緒に歌を歌う。それは一見すると健常者がのために「一緒に歌ってあげている」ように見えるかもしれない。けれど、実際に一緒に歌を歌っていると、歌を歌いたかったのは実はぼくのほうで、その彼は、ぼくが歌を歌えるように先導してくれているのではないかと思うことがよくある。

彼らの歌を聴いていると「だよな、今、歌を歌いたかったよな、先に歌ってくれたおかげでおれも歌えたよ」と妙に納得してしまう。そして「お前も歌っていいんだぞ」と言われているような気がして、歌を口ずさんだりしてしまうのだ。

ぼくが歌い始めると、彼らの繰り返しが少し変わることがある。ぼくを触ってくれたり、目を見てくれたりする。とするならば、もしかしたら、彼らだって、ぼくがいることで影響を受けているのではないか。ちょっと音階を変えたり、抑揚をつけたりしているのも、ぼくがいるからではないか。

そうなると、彼が歌っているのか、ぼくが歌っているのか、ぼくは彼に歌わされているのか、彼がぼくに歌わされているのか、ぼくは歌いたいから歌っているのだけれど、その水源には彼が影響しているのではないか・・・と、もはやどちらが主体的に歌っているのかが分からなくなるのだった(これを「中動態」とかいうのだろうか)。

その歌は、どちらかの「表現」なのではなく、彼とぼくの「そこに共事している」という関係が二人に歌わせているものなのかもしれない。それは彼の歌であり、ぼくの歌でもあるのだけれど、実はそのどちらでもない。とても曖昧な、貴族の難しい「何か」になってしまう。つまりそれが「表現未満、」なのではないか(わけわからないこと言っている気がするんだけど)。

レッツの皆さんがやっていることは、例えば「トイレに連れていく」とか、「ご飯を食べさせる」とか、身体的な介助ももちろんあるけれど、基本的には、そうやってシンプルに一緒にそこにいて、その人に近づいて、その人がその人であることを守ろうということである。そういうことの延長線上に「個人の尊厳を守る」というものもあるのだろう。

けれども、先ほどの話とつなげるのであれば、利用者の尊厳を守っているように思えて、実は彼らに守られているのは自分たちのほうなのかもしれないし、もしかしたら、そこにいることでお互いに影響し合い、守り合い、許し合っているということなのではないだろうか。

そういう感覚を、他の何かで得たことはない。感覚なので上手く説明できるわけでも、何かの参考書を見たわけでもない。果たしてそれが福祉的に正しいことなのかも分からないし、もしかしたら傲慢な考えとして否定されているものなのかもしれない。けれど、思考が粗くてもいいからとにかく書いておいたほうがいいなという直感だけがあって、それで書き残した次第だ。

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