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福祉と誤配

レッツを観光していて「これは面白い」と思うことのひとつに、送迎の同行というのがある。利用者の家へ、1日2回送り迎えをするのだ。送迎車が往復する。直線距離にすれば2、30分の距離だが、利用者の自宅を回ったり、いろいろしているうちに1時間越えのドライブになってしまう。話を聞くのにちょうどいいのだ。

この日(5月30日)の運転手は高林さんだった。高林さんはレッツ6年目。もともと建築やまちづくりなどに関わってきた方だ。大阪や神戸を中心に、地域で防災プログラムなどを提供する仕事などをしていたのだが、そこで働くうち、もっと暮らしのなかに入り込んで、ひとりのプレイヤーとして動きたいという思いが強くなり、レッツの門を叩いたという。レッツには、高林さんのように「福祉畑」ではないスタッフが多い。

高林さんが運転する車でじっくりと話を聞く

高林さんはレッツの仕事について、「デザイン力が問われるところが面白い」と言う。一般的に、障害のない人は、その施設や環境が自分に合わなくても、我慢しながら、なんとか工夫しながら使うことができる。うまくいっているように見えるけれど、客が合わせてしまうから本当にデザインが機能しているかは分かりにくいということのようだ。

ところが、レッツの利用者は環境に合わせることができない。心地よくないものは心地よくないし、心地よく感じられなければそこに居てくれない。使いにくいものは使いにくいから使ってはくれない。それがわかりやすいから、デザイナーは余計に力量を問われることになる。

高林さんは「日々の暮らしの小さなところにデザイン思考を張り巡らせていかなければいけないので、デザイナーにとっては働き甲斐がある職場だと思いますよ」と、にこやかに語ってくれた。しかし「ぼくのやり方が正しいというわけじゃなく、それぞれが異なる考えやアイデアで向かい合っていくことのほうが、実はもっと大事なんだと思います」とも言っていた。

建築をやってきた人は建築の、アーティストだった人たちはアートの、音楽出身の人たちは音楽の力を使って、それぞれに異なるやり方で利用者に向き合う。そうでなければ、多様すぎるほど多様な利用者に対峙することはできない。誰がフィットするか分からない。ならばスタッフは多様なほうがいい。そういうことならば、よくわかる。

ここに来る前は、レッツには何かマニュアルめいたものがあると思っていた。しかし実際にはそうではなかった。あとで代表の久保田さんに確認したら「確かにうちにはマニュアルみたいなものはありませんね。食事やトイレの介助すら、みんな独学というか、違うやり方かもしれない」と言っていた。

レッツの活動がカオスに見える理由が少しわかった。利用者を統一化・規格化できない、しかもデザインに合わせてくれないから、スタッフの支援もカオスにならざるを得ないということだろう。

素人が居場所になる

満面の笑みで楽器を演奏するオガちゃん

「たけぶん」の利用者にオガちゃんという男性がいる。高林さんから面白いエピソードを教えてもらった。オガちゃんは、「たけぶん」が新しく完成したタイミングでこちらにやって来た利用者だ。商店街は刺激が多いので、オガちゃんは外出したくで仕方がない。スタッフがどうしたら施設で落ち着いてくれるだろうかと手を焼いていた頃、新しくできた「たけぶん」のあいさつ係を数ヶ月お願いしていたテンギョウさんという男性がオガちゃんに興味を持った。

そのテンギョウさんは介護職員ではないから、オガちゃんを面白がって一緒に外出してしまう。スタッフは「外に出たら絶対に帰ってこない」と思っていたそうだが、オガちゃんはちゃんと帰ってきた。これだけでもすごいことなのだが、テンギョウさんに話を聞いてみると、オガちゃんは散歩中ギターショップに立ち寄ったそうだ。そして、手持ちの20円でアンプを買おうとした。買えないのに絶対欲しいと聞かない。

仕方ないと割り切った思ったテンギョウさんはその20円で買ってみたらどうだとレジに連れて行った。すると、当然20円では買えないので、店員さんから買えませんと告げられる。ゴネるかと思ったけれど、オガちゃんはすんなり諦めることができたそうだ。スタッフがどれほど説得しても諦められなかったアンプ。それを諦めさせたのはオガちゃんになんの接点もない店員さんだった。

このエピソードを話し終わった高林さんは、「店員さんは支援者じゃないから諦めやすかったのかもしれないですね。スタッフだったらこだわってしまったかもしれない。だから外の人たちの関わりが欠かせないんですよ」と最後に付け加えた。

親ですらどうにもならないこと。施設ですらどうにもならないこと。本人ですらどうにでもならないことを、赤の他人や、ふらっとやってきた旅人のテンギョウさんが、いとも簡単に飛び越えていってしまう。レッツは、そういう偶然性、エラーのようなできごとを呼び込むために徹底して外に開いているということかもしれない。

高林さんは、そんな「エラーが生み出す福祉」についてもうひとつエピソードを教えてくれた。

「たけぶん」に、カワちゃんという男性がいる。レッツに行くと、だいたいカワちゃんが案内してくれるので、事情をよく知らない人からするとカワちゃんは利用者ではなく職員だ。ぼくもレッツ観光の初日にカワちゃんのお世話になった。お茶を出してくれたり、他の利用者さんとコミュニケーションをとったり、確かにスタッフ然としている。

打ち合わせに来た人にお茶を出すカワちゃん

自分でバスを利用してやって来るし、食事もトイレも特別な介助は何ひとつ必要ない。だから以前利用していた施設では、これもできるはずだ、あれもできるんじゃないかといろいろなことに挑戦した(時に“させられた”)らしい。しかし、実際にはできないことや不得意なことも多く、放り投げてしまったり挫折して落ち込んでしまったりということが多くあったそうだ。

自分が活躍できる場所を見つけたカワちゃんは、重度の障害を持つたけし君のことを気にかけている。落ち着きがないときは頭をなでなでしてあげたり、何かと気にかけている様子だ。たけし君も、お母さんである久保田さんの話を聞かないのに、不思議とカワちゃんの言うことは聞くということがあるそうだ。

たけしくん(左)の世話役を買って出ているカワちゃん(右)

高林さんは「カワちゃんにとっては、たけしくんが居場所になっているってことです」と言っていた。カワちゃんがこうして自分らしくスタッフのようにいられるのは、そこにたけし君がいるからなのだ。同時に、たけし君にとってもカワちゃんは大事な居場所になっている。

オガちゃんがテンギョウさんとうまく言ったように、店員さんがオガちゃんのこだわりを解きほぐしたように、カワちゃんがたけし君の居場所になり、たけし君もまた、カワちゃんの大事な存在になっているように、誰がフィットするか、誰が居場所になるかはわからない。そこには障害の有無もない。家族の関係ですらない。けれど、誰かが誰かの居場所になれる。その事実が、とても強く心に響いた。

福祉は誤配される

誰が居場所になるかわからない。しかし誰もがその可能性を持っている。

それは、とても希望的なことのように思えた。特別な福祉のスキルがなくても、専門的な知識がなくても、素人であるぼくたちも、家族や支援の枠組みを超えて、誰かの居場所になれるかもしれないのだから。

そしてぼくはこんなことを考えた。福祉は、根源的に、大切な居場所になる誰かがやってくるのを心待ちにしている。人間がむき出しになる重度の障害福祉だからこそ、まだ見ぬ誰かに「誤配」されるのを待っているのではないかと。

ぼくたちは、生まれながらにして誰かの居場所になってしまう可能性を持っている。言い換えれば、誰かの居場所を求める声を、無意識に受信「してしまう」機械を生まれながらに埋め込まれていると言えるかもしれない。誰が誰の居場所になるかはわからない。何がその受信スイッチの感度を高めるのかもわからない(この辺りは今後考えなくちゃいけないことかもしれない)。科学的に説明しろと言ってもできないと思う。けれど、ぼくたちは誰かの居場所になってしまう。

そして、言うなればその「誤配可能性」は、ぼくたちのような課題の外側にいる人間に、わずかばかりの当事者性を付与していく。

障害福祉なんて関係がないと思っている人もいるだろう。そんなものは施設の職員がやればいいと思っている人も多いかもしれない。街の中でそれらしい人を見かけても、どうしていいかわからないという人も多いはずだ。ぼくだってプロの介護職員ではないし、たまたまレッツという法人の施設に遊びに来ただけに過ぎない。ぼくたちはいつも障害福祉の外側にいる。

しかし、ショップの店員さんがオガちゃんのこだわりを解きほぐしたように、カワちゃんがたけし君の居場所になったように、いつそうなるかはわからないけれど、福祉の外側にいるぼくたちも、誰かの生きにくさを癒すことができる。家族という枠を超えて、誰かの居場所になる可能性を有している。

ぼくたちは当事者ではない。けれども障害福祉の共事者(事を共にする人間)なのだ。福祉は誤配される。そしてその受信機を、ぼくたちは生まれながらに持ってしまっている。福祉に無関係な人などいるだろうか。

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