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「色々な人たち」の中にぼくもいる

レッツは、ここのところ地元の小学生に対するプログラムに力を入れている。先日も、地元の佐鳴台小学校の生徒たち90名が3チームに分かれ、たけし文化センターにやってきて観光したという。前回訪問した時、スタッフの夏目さんからその話を伺ったのだけれど、とても面白かったのでまとめてみた。

まず、プログラムの手順はこうだ。たけぶんにやってきた生徒たちは、ガイドの話を聞く。あとは基本的には集合時間まで自由に過ごす。生徒たちには2種類のメモが配られる。「もくげきシート」と「これやったシート」の2種類がある。目撃したもの、そして、実際にこれをやってみたということ、ふた通りの関わりをメモすることになる。

メモは、集合時間になったら箱に入れ、そのあとみんなで中身を見て発表し合う。そして最後に、目撃したことを思い出しながら、絵葉書を書くのだという。レッツ宛に送ったり家族に書いたりと、送り先は様々だったそうだ。

夏目さんたちは、生徒たちに対する明確な指示や、これをしてはダメという禁止事項をほとんど提示しなかったという。

おかげで緊張の解かれた子どもたちは、階段の踊り場から紙飛行機を飛ばしまくったり、ドラムをガンガン叩いたり、ジャングルジムのようなものに登ったりと、想像以上に自由に過ごしてくれたそうだ。

夏目さんが色々なことを教えてくれた!

「自分が楽しむだけで精一杯になってしまった子どももいましたけど、まずは自由に過ごせる場を目指そうと。先生からの反応のなかで印象的だったものが、学校の支援ではいつも机の上でグダーッとしてしまう子どもが、今回のツアーではすごく楽しそうにしてた、という反応でした。驚きました」

「先生はそれに付け加えて、ずっとゲームしてる人とか、ソファーに寝ちゃう人とかを見て、今はうまくいかないことが多くても、ハッピーに生きることができるということに気づいたんじゃないかって。それも印象に残っています」

なぜそういう反応が生まれたのだろう。

夏目さんは「障害のある大人と出会ったことがよかったみたいだと先生がおっしゃっていました」と振り返った。「同年代なのに自分よりもできないというのは軽蔑の対象になってしまうかもしれません。大人なのにこんな自由に過ごしていいんだってことが、ある種の自己肯定につながったのかもしれませんね」。

確かに、自由にしていいよと大人が言っても、羽目を外したら怒られてしまうことを子どもたちは知っている。だから普通はセーブしてしまうものだ。そのリミットが外れていかないと、子どもたちだって自らの「表現未満、」を表出することができないだろう。

その点、たけし文化センターは、もとから「その人がいたいようにいていい場所」だ。いつもはやっちゃダメだけど今日は特別ねって、周りの大人が子どもたちに忖度したり演出したりしているわけじゃない。施設にいる大人たちが、そもそもいたいようにいていい。みんな実際にそうしている。だからこそ、自由さに接した子どもたちが、いつもより自分を開放できるのかも、と思った。

目撃と問い

子どもたちに課せられたワークが、「もくげきシート」と「これやったシート」の二段構えなのも面白いと思った。なぜこの2種類のメモになったのかについて、夏目さんはこう語る。

「もくげきシート」と「これやったシート」

「わからないものと出会ったときに、わからないやってスルーするんじゃなく、見てみる、観察することを意識してもらいたいなと思って、まず『もくげきシート』を作りました。でも、それだけでは不十分で、そこに他者との関わりを作りたかったんです。その人と出会っているんだということを確かめるっていうか、切り捨てないで対話する体勢を作って欲しいなと。それで『これやったシート』も作ったんです」。

もくげきシートがあるおかげで、子どもたちは「見る」ことに対する感度が上がる。そして、利用者や、利用者が作った不思議な何かや、利用者と誰かの謎の造形物を目撃してしまう。視界に入るということは、それが何かしら気になったからだろう。だから、そこに「これはなんだ!」や「なんでこれができたんだ!?」、「この人は何がしたいんだ!?」というような問いが生まれる。つまり、シートは問いの誘引装置なのだ。

しかし夏目さんは、問いに対する答えの深さは求めない。「シートにはこんなことが書いてありました。なんでだと思う? って子どもたちに聞くんだけど、答え合わせはせずに、そうかもねって終わっていいと思うんです。だって、現場もそうですから。例えばタケちゃんがどうしたいかは私たちにもわからない。わからないものだらけ、答えの出ないものだらけなんだってことも感じてもらいたいなと」。

答えのなさ。それは学校教育とは対極にあるものかもしれない。夏目さんは「学校は解を導き出すところだけれど、先が不透明な今のような時代に、わからないものに直面したときに自分はどうするか、自分と違う人と出会ったときにどうするか。わからないと言いながらも、想像してみることは大事だと思うんです」という。

学校ではどうしたって答えを出さなければいけない。学習の目的や成果や、しかるべきレベルアップが求められる。一方レッツでは、問いが問いのまま、疑問が疑問のまま残ってもいい。実際、コミュニケーションを取ることも難しいのだからわからないことだらけだ。スタッフだってわからないを日々重ねている。

やってもいいし、やらなくてもいい。わからなくてもいい。

目的や成果にあふれた学校生活を送っている子どもたちは、それが許されている場所で、いったい何を感じるだろうか。

夏目さんと竹内さんが考えたプログラムのコンセプト

フラットな体験

それともう一つ。ワークが「目撃」だけで終わらないのがいいと思う。そのさきに体験があるのだ。

そのための誘引剤が「これやったシート」。このシートを満たすには、何かをやるべきなんだろうと生徒たちが自覚できる。その自覚があって初めて、夏目さんのいう「対話する体勢」が生まれる。けれども、体勢を作るだけだから、対話しろというわけじゃない。その宙ぶらりんな余白がいいなあと思った。

「見るだけでもいいけど、やってみると面白いかもって促しはしますけど、やらなくてもいいよ、とも言うようにしました。できるだけ『ダメ』と言わないようにしようと。先生たちからも『子どもたちが失礼なことを言うかも』と言われていたんですけど、その心配は要りませんと。思ったことに蓋をしないことが大事だということを伝えました」と夏目さんは振り返る。

やってもいいし、やらなくてもいい。それも自由。思ったことは言っちゃってもいい。それもまた自由。そうして感情に蓋をしないことを、夏目さんたちは大切にしているようだった。どうしてあの人は寝てるんだろう。どうしてあの人は騒いでるんだろう。ちょっと変だな。そういう初歩的な疑問を、感じたまま口に出して言っていいというのだ。

これって本当に大事なことだとぼくは思う。利用者の行動が「迷惑」と捉えられる前に、フラットな「個性」や「表現」として認識することができたら、その子どもたちの障害に対する視線は大きく変わっていくのではないか、と思うからだ。

思えばぼくたちは、障害のある人が、どんな人かもわからない、ほとんど会ったこともないのに、差別はいけない偏見はいけないと教育されるし、「身体障害」や「精神障害」みたいな言葉だけを先に学んでしまう。だから、障害は「可哀想なもの/守られるべきもの」か、「可哀想なもの/役に立たない人」かの、両極端な反応を生み出してしまうのかもしれない。

特に日本では、人権教育以前に道徳教育が盛んだから、「障害があろうとなかろうと、人は誰でも生まれながらにしてさまざまな権利を有している」という意識ではなく、「社会のなかにいる弱い人たちを守らなければならない」という道徳感を“先に”身につけてしまう。それが逆だったら、また違うのだろうなあ。

夏目さんはこう話している。「ただ単に障害者と触れ合いましょうっていうプログラムは、先入観が邪魔をして『障害のあるかわいそうな人たち』ってなりがちなように感じています。すでに小学校5、6年生になると、もう多くを学んでしまってるので、目の前の状況を楽しめて、なおかつフラットに受け止めることのできる小学校3、4年生のうちにレッツに来てもらいたいんですよ」。

本当にそうだなあと思う。

プログラムは「GOGO! たけぶん探検隊」と名付けられた

それから、夏目さんは、最後にもう一つ大事な話をしてくれた。このプログラムで小学生たちに伝えたいことってなんですか? というありふれた質問に対する答えとして話してくれたことだ。

「色々な人たちがいるってということに自分も含まれているんだってことに気づけることが大事だよねと、スタッフの竹内さんといつも話しています。色々な人たちがいていいし、学校だけが自分の生きる場所じゃないんだって思ってもらって、それが自己肯定感につながって、希望が持てたらいいなって」

この話は、とてもクリティカルだと思った。「世の中には色々な人がいる」。ぼくらがそういう時、「色々な人」と自分を切り離してはいませんか? その「色々な人」を、無意識に「自分は含まれない弱者」だと考えてないですか? と夏目さんから問いかけられているような気がしたからだ。

だいたい教育のシステムがそうなっている。何らかの障害のある人たちは自分たちとは違うクラスや特別な学校で勉強している。どんな障害があって、どんな個性があって、どんな生きにくさがあって、どんな幸せがあって、どんな表現があるのか。そんなことを知る機会もなく、そのくせ大人になると「多様性」を求められる。

だから、どこか上から目線で「生きにくさを抱えた人たちを守ろう」という考えになるか、それがねじれて「役に立たない人たちに税金使うのはどうなの?」みたいな反応とに分かれてしまうのかもしれない。出てくる対応は正反対だけれど、「色々な人たちに自分を含まない」という点では同じだ。

そうじゃなくて、必要なのは、自分も「色々な人」の中にいるという自覚。自分も弱者であり、自分だって弱さを抱えているんだという自認。自分も「表現未満、」の領域を持っているという共感。そういうものかもしれない。

色々な人たちの中に自分もいること。自分も生きづらさや弱さを抱えた人間であり、レッツに通う人たちとなにひとつ変わらないこと。けれどこうしてハッピーに生きていくことができること。そんなぼくにも、居場所があるんだということ。

このメッセージは、決して子どもたちだけに向けられた言葉ではないと思った。レッツのプログラムを誰よりも受けなくちゃいけないのは、大人であるぼくたちの方だなと夏目さんの話を聞きながら思ったし、うちの子どもが中学年になったら(というか来月にでも)連れてきたいなと思った。

そうだよ、おれも、みんなと同じだったんだよ。色々な人たちの中にぼくもいるし、目の前のあなたも「色々な人たち」の中にいる。

その自覚は、別に自分の気持ちを害するものではなかった。むしろ、それを認めてしまったがゆえの妙な納得感がある。他者と向き合う時の姿勢も、少し変わるような気がする。

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