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始まりの言葉

9月19日木曜日。レッツ観光は通算11日目。8月のお盆前以来の、久しぶりのレッツ訪問である。

前回の観光からひと月以上開いてしまって、みんな、ぼくのことを覚えてくれているだろうかと少し不安になったけれど、カワちゃんはぼくの姿を見つけて「久しぶり!」と言ってくれるし、こっちゃんもニコニコしてくれて、リョウガくんもソフトタッチで迎えてくれた。オオタくんは、いつものように、まるでアシカか何かみたいに昼寝をしてて、変わらずいてくれることがなんだかとてもうれしくなった。彼らを日常的に支えているわけではないソトモノのぼくは気軽なものである。

無邪気な寝顔を見せていたオオタくん
リョウガくんもいつも調子だ!
日向ぼっこしているこっちゃん。こちらもいつもの風景だ

今回は、編集者の影山裕樹さんを伴っての来浜となった。各地でアートプロジェクトや地域づくりに関わり、それらに関する編著本も多い影山さんに、一度この「たけし文化センター(たけぶん)」を見てもらいたかったのだ。

影山さんも、以前関わった本でレッツの取り組みを紹介したことがあるらしく、一度遊びに行きたいと思っていたそうだ。影山さんにも1本テキストをお願いしている。近々ここにアップされるはずなのでお楽しみに。

スタッフの皆さんは日常の仕事もあるので、ぼくが影山さんを連れてたけぶんを紹介していく。もちろんスタッフの皆さんが説明した方が圧倒的に精度は高いけれど、ぼくだって「これまで10回くらいはここを訪れている」程度には説明できる。

ここではこんなことが行われていて、この人はだれだれで、どんな感じの人で・・・と、いつの間にか説明できるようになっている。なんとも言えず誇らしい気分だ。やはり彼らを日常的に支えているわけではないソトモノのぼくは気軽なものである。

そのあとスタッフの水越さんから、これまでのレッツの取り組みや現在の活動に至る経緯などに関する簡単なレクチャーを受け、「では自由に」ということで、ぼくは奥の方に座っていた詩人のムラキングに声をかけ、出口に近いテーブルに腰を下ろしてしばらくおしゃべりをした。

レッツでまったりと書き仕事をする影山さん
妄想恋愛詩人ムラキング。ヒゲが短くなり、いい感じだ

ムラキングは「妄想恋愛詩人」として活動している詩人である。と同時に、この場所の利用者でもある。高校生の時に交友関係の悩みなどから心が不安定になり統合失調症と診断された。10年近く前からレッツが運営する「アルス・ノヴァ」(たけし文化センター内にある)に通っている。

日常的に詩の創作を続けつつ、レッツが主催するイベントなどでは、ポエトリーリーディングのパフォーマンスを行ったり、たけぶんを訪問してきた人に即興の詩をプレゼントしたりと活動は多彩だ。以前は、とある雑誌でも自分のコーナーを持っていたそうだ。レッツが標榜する「表現未満、」を体現する作家として、ムラキングは確かな地位を確立しているようにも見える。

そんなムラキング、前回までは無精ひげがボッサボサに伸びてたのに、あごひげだけになっているじゃないか! なんだかクリエイターっぽさが増してシャープな印象。「ひげ、いいじゃん!」なんて話をしながら、最近の詩作はどうよ、ってかムラキングってなんで詩の創作を始めたの? ムラキングにとって「表現未満、」ってどんな位置付けよ? みたいな感じで、1時間くらいだろうか、まったりとおしゃべりが続いた。

以前のヒゲを剃る前のムラキング(左)とぼく(右)

以下、ぼくがメモでまとめたものを書き連ねておく。あらかじめ提示しておけば、これはムラキングの「インタビュー記事」ではない。あくまでぼくのメモ書きを整理したものである。

もともとムラキングが詩の創作を始めたのは高校生のとき。心が安定しなくなり、妄想や言葉が頭のなかに溢れてしまい、どうしても書き出さないと病んでしまう。そんな状態。ひたすら紙にわーーーって書いていた。溜まっては書き、書いては溜まっての繰り返し。

歌の歌詞を書き写すのもやっていた。近くのレンタル屋で中古のCDを買い漁って聴き続けノートに書き写していた。夜遅くまでラジオ聴いて、テープに録音して聴いて、それでまた詩を書いて、というのも。心が安定してなかったので、そういうことに逃げてたのかもしれません、とのこと。

前のクリニックに通ってた時は、無印のノートを買って、詩で100ページを全部埋めようと決めた。1カ月で埋まった。自分でもすごいと思うと。作品を作っているわけではなくて溜まったものを書き出しただけ。詩はダンボール何箱分にもなるけど、引っ越すたびに捨てていた。アルス・ノヴァに来始めた頃、「なんで取っておかないの」と聞かれたが、結局吐き出してただけだ、と述懐。

うむ。ムラキングにとって詩作とは「吐き出すこと」であって、それが表現か否かという問い自身あまり意味がないことだったのかもしれない。「それに逃げてしまっていた」とムラキング。統合失調症には妄想や幻聴も起こりうるから、詩を書くことで命をつないでいた、という感じだったのかもしれない。

たけぶんの中には、ムラキングの詩があちこちに展示されている

詩のなかには恋愛詩もある。AKBが好きな知り合いに教えてもらってネットで動画を見る。色々と妄想が膨らんで恋愛詩を書くように。でも「妄想恋愛詩人」と名付けられたのはここに来てから。レッツのスタッフの尾張さんに「完全に恋愛妄想だよね?」と言われて「妄想恋愛詩人」としてデビュー。

妄想だという割に「よほどのことがなければひとりで詩は書けない」とムラキング。他者に対する妄想を詩にしているので、妄想を向ける相手がいないと成り立たない。誰かを付随させて書かないと、書いてる間に気持ちが落ちちゃう。自分の暗い部分を書くのは楽しいが、だれかに想いを乗せて書いてる。

家に居たくないので、ここ数年は近所のデニーズで詩を書く。誰かの曲を聴きながら、言葉を聞き逃さないようにして、ピンときたらすぐ書くというのもやっている。曲を聴いて、例えば「君を愛しています」という歌詞を、ムラキングの妄想で「君を殺したい」に変換して書いたりしている。だから、ひとりっきりで詩を書いているというわけではない、という。

ううむ。妄想詩だから1人で完結しているとも言える。けれどムラキングは、妄想をぶつけるだれかがいなければ詩は書けないからひとりでやっているわけではないと言う。その解釈がおもしろい。

音楽作品など別のものをテコに自身の言葉をひねり出すというのもいい。ひとりでやっているように見え、ムラキングの詩は、他者との関係性の中で繰り広げられる「妄想の即興セッション」を通じて生成されているのかもしれない。

ムラキングの詩の一節を閉じ込めたバッジその1

「表現」と「表現未満、」の線引きは難しい。見る人がはっきりと存在していて、自分もしっかりと練習して、そしてその人たちに見せていくスタイルなら「表現」で、突然パッと出てくるようなアドリブ的、即興的なものが「未満、」だと分けられるかも。別に伝えることを目的にしていない、伝わらないことが前提。仮に詩の中身が伝わらなくても「それって妄想だから」って言える。

妄想は、本来自分のなかにとどめておくもの。よほどラブラブにならない限り相手には言えない。それに、ムラキングが妄想をぶつけたい相手は会えない人なので会えないぶん余計に妄想が募る。でも伝えられないから妄想が募る。妄想には終わりがない、完結しないもの。「妄想が伝わっちゃったら妄想じゃなくなるじゃないですか」。

久保田さんに表現未満、という言葉はどうだろうと聞かれた時、それまでムラキングは自分では表現していると思ってたけど、誰かに作品として伝えたいと思っているかはわからないと思った。誰かしらに届けばいいなと思ってはいたが、多くの人に伝えよう、見てもらおうとは思ってない。「ムラキングの詩は『表現未満、』を体現してる」なんて言ってくれる人もいるが、「ぼくにはわかりません」。

と、こんな風にムラキングの言葉を「まとめて」みたけれど、実際にムラキングから語られた言葉は、なんというか、もう少し生々しく、ちょっと混濁していて、話も少し行ったり来たりするし、昔の記憶ははっきりしなかったりで、まとめたようにクリアではなかった。けれど、そういうムラキングの言葉だからこそ響くのだし、その端々から「表現未満、」の正体が浮かび上がってくるような気もした。

ムラキングの詩の一節を閉じ込めたバッジその2

レッツが標榜する「表現未満、」とはなんだろう。以上のまとめをもとに、個人的に現段階での理解で考えてみる。

「表現未満、」は、受け取る側の言葉である

なんらかの行為(ムラキングで言えば詩を書いてしまうこと)が「表現」なのか、あるいは「表現未満、」かなんてことは、本人にとってはどちらでもいいし、その行為がどちらに属するものかの判定すら本人には難しい。本人にとってどちらでもいいのだから、「表現未満、」とは、あくまで何かを「受け取る側」の言葉だと考えることができる。

何かしらの行為を、それを見た人が「それって表現未満かも」と思ってみる。それで初めて「表現未満、」が立ち現れる。つまり「表現未満、」には常に発見者が伴うということだ。ムラキングという妄想恋愛詩人がスタッフの尾張さんに発見されたようにだ。

その行為を行う人だけでなく、受け取る人も含めての言葉だとするなら、そこには「関係性」が立ち現れてくる。「表現未満、」とは、だからつまり、「関係性を構築するための言葉」と言えるかもしれない。

「表現未満、」は、行為者の存在をポジティブに受け止める

「表現未満、」という言葉は、その行為の根源を探ろうとする思考回路を作りだす。否定ではなく肯定の言葉なので、次第に、なぜそれを書かざるを得ないのか、なぜそういうスタイルになったのか、なぜそういう行為が出てくるのか。そういう、個人に迫る思考の回路が次々に生まれ、深まるのだ。

まったく同じ行為でも、「迷惑行為」と思えば排除の対象になり、「障害由来の仕方のないもの」とすれば思考停止になってしまう。「気持ち悪い」としてしまったら、思考停止且つ排除だ。けれども、あえて「表現未満、」という言葉で捉えて見ると、その言葉の響きが謎のポジティブさを生み出すのだった。

結果として、ムラキングの行為は、時に「面白いもの」、「興味深いもの」として受け止められていく。ムラキングが「妄想恋愛詩人としてぼくが生きていけるレッツはやっぱりすごいんです」という話を何度もしてくれたけれど、そうして面白がられることで、ムラキングは生きる場所を得たのは事実だろう。

「表現未満、」は、他者の見え方、社会の見え方を変える(こともある)

そのような経験を通じて「表現未満、」は、ムラキングとムラキングに向き合う人の関係性をポジティブに紡ぎだすだけでなく、ぼくたちの「障害を見る目」を少しずつ変容させていく。

ムラキングを見たような視点そのままに、そのメガネをかけたまま、あの人やこの人を見ることができるようになる感覚なのだ。変えてしまうのは、障害を見る目だけではない。他者を見る目そのものでもある。

少なくともぼくは「表現未満、」という概念を知ってから、家族との向き合い方が変わった。一言で言えば寛容になった。面白がれるようになった。ネガティブなものが、ちょっとポジティブなものに思えるようになってきた。町で障害のある人たちの姿を見たときの対応も変わった。施設で高齢者を取材するときの姿勢も変わった気がする。とにかく影響がでかいのだった。

その意識の変化は、例えば素晴らしいアート作品に出会った前後に感じる変化に近いかもしれない。

震災後、カオス*ラウンジがぼくの地元で開催した新芸術祭を見て、地元を見る目がすっかりと変わってしまったように、ぼくは、レッツに関わるようになって、他者を見る目、社会の見え方が大きく変化した。その意味で、レッツの取り組みは極めてアート的だとぼくは思うし、新しい言葉を発明することでそれを成し遂げているという意味で、レッツの取り組みは批評的であるとも思う。

「表現未満、」は、社会に漏れ出す(こともある)

そして最後に、この「表現未満、」が面白いのは、個人への接近に止まることなく、社会にも漏れ出していくことであるということも付け加えておきたい。

ムラキングの作品は、レッツに来た人は誰でも見ることができるし、作品のグッズも販売されているしパフォーマンスも行う。常に外に開かれているから、ある種の「誤配」が生まれ、それに触れた人の感情や学び(もしかしたら違和感なども含めて)に紐づいた言葉が、じわじわと社会に漏れ出していくのだ。

ぼくがここにテキストを書いていることもそうだし、編集者の影山さんが関わってくれたこともそう。そうして「表現未満、」を語る言葉たちが増え、関わる人たちも増え、それがまた人々の心に変化を与え、レッツを見学してみたいという人や、レッツの取り組みを取材したいという人を作り出す。

そしてそれが繰り返されることで、社会は、より寛容になる、かもしれないし、障害のある人に対する理解が深まる、かもしれない。

けれども「表現未満、」は、目的にはなり得ない

けれども、それらは皆、偶然の「結果」であって、目的にはなり得ない。

社会の見え方を変える「ために」レッツに通うわけではない。たまたま変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。そういう行為に触れることがおもしろいから触れるだけで、「表現未満、」は、社会の構造や偏見を打破する「ために」やるものでもない。それらはいつだって「結果として」訪れるものだとぼくには思える。

そもそも「表現未満、」という行為もまた、何かの「ために」行われるものではない。なんらかの価値が社会的に認められたものでもないし、お金に換算されるものや、「いいね!」を獲得するために練られたものでもない。目的や意図や価値や評価とは切り離れたところにある、とても根源的なものだ。

表現未満、への向き合い方

だから「表現未満、」に向き合う時に求められるのは、ただ、一緒にいることだ。目的なき行為なのだから、それを鑑賞する、あるいは体験する、目撃する人も目的を持ってはいけない。ただ、一緒にいて、面白がってみればいい。面白い、というポジティブな意味が含まれることで、その行為は「面白いもの」として社会に漏れ出し、そこに関わってくれる人を作りだす。

その始まりにあるのが、「表現未満、」という言葉、捉え方、向き合い方。

そこから、すべてが始まる。「表現未満、」とは「始まりの言葉」だ。それを通じてムラキングと知り合えたぼくは、とても幸せだと思う。妻や娘、父や母はどうだろう。すでに付き合いの長い人だって、「表現未満、」を通じてもう一度知り合い“直す”ことができるかもしれない。

新しい関係を開く。そこから始まる。出会い直す。

ぼくにとって「表現未満、」とは、今、そんな言葉になりつつある。

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