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「表現未満、」と「からだ」 細馬宏通(早稲田大学文学学術院教授)
わたしたちが家庭や職場や遊び場でふだんしている行為、交わしている言葉や動作、地味で小さなやりとりに、実は大事件に匹敵する出来事が埋め込まれている!? ひとの会話や身振りを研究する一方、視聴 覚文化などについても考察を続ける細馬宏通さんをゲストに招いて「からだ」をつぶさにみなおします。
テーマ:「表現未満、」と「からだ」
ゲスト:細馬宏通さん(早稲田大学文学学術院教授)
日時:2019年11月27日(水) 18:30~20:30
参加:無料 (カンパ制)
場所:たけし文化センター連尺町
1960年、兵庫県生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。日常会話における身体動作の研究を行うかたわら、マンガ、アニメーションなど19世紀以降の視聴覚文 化にも関心を寄せている。著書に認知症高齢者施設での観察について書いた『介護するからだ』(医学書院)の他、『二つの「この世界の片隅に」』(青土社)、『うたの しくみ』(ぴあ)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くか』(新潮選書)、『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)、『絵はがきの時代』『浅草十二階』(ともに青土社)など。
★当日の様子をレポートします★
レポート:vol.3 細馬宏通「表現未満、」と「からだ」
人間行動学者の細馬宏通さんをゲストにトークシリーズ・手さぐりの「表現未満、」vol.3〈「表現未満、」と「からだ」〉を開催しました。
細馬さんによるアルス・ノヴァの日常動画の分析と、スタッフササキとの会話により、何気ない行為や言葉、小さなやりとりに見られる「表現未満、」が探求されました。細馬さんは、一般的に「表現」というものは「美術など空間の中に固定して作られたもの」というイメージがあるが、一方で音楽のような「やってる最中も色々と起こっている表現」もあるといいます。
じゃんけんぽんまでのプロセスとしての表現
最初に分析された動画は「門番じゃんけん」というタイトルが付けられたもの。
階段をのぼりたい鶴見くんと、彼の行く手を門番のようにはばみ、じゃんけんを仕掛ける佐藤さんの遊びを撮影した動画です。些細なからだの動きに着目すると、同時に手が出る状態に至るまでに、多様なやり取りや「表現」が見えてきます。勝ち負けを競うものとしてのじゃんけんとは異なる、この遊びの面白さをつぶさに解説/言語化してもらいました。
メンバーのアダチくんがスタッフの口に隙間なくガムテープを貼っていく(!)という動画では、「遊びってどこまでいくんだろう」という素朴な問いから、「芸術の終わりとは何か」についても考えます。普通は、絵の輪郭と面を塗って「終わり」とする。飾られた絵は、作者である人の意志のもとで終えられた最終形だと見る。しかし実際には、その表現が「そこで終わり」とされたことには、「絵の具がなくなったから」「帰る時間が迫っていた」など様々な事情や周囲との関係があり、そのプロセスに面白いことが起こっていると細馬さんは指摘します。
最後にまとめとして、「(日常では)相手と自分のやりたいことは大体ズレていて、じゃんけんをやり直すように、どうそれを修復するか」がやり取りされていて、表現とはそのやり取りのプロセスそれ自体のことでもあり、「可能性が確定する前という意味では、〈表現未満、〉と言えるのでは」と述べられました。
(報告:佐藤航也)
当日の配信動画を以下からご覧いただけます
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10月23日(日)演劇ステージ「風と砂利とこと」出演者情報
何かを表現するっていうことは、それまでは決して表現でなかった「音/こと」を表現の 俎上(そじょう)に載せるためになされるんですわ。だから、それは単なる主張以上のもの、それでいながら表現未満なものを、違う次元に押し込むものなんだと思うんですよ。
≪当日動画あり≫シンポジウム 【生きること、それも表現 ~「表現未満、」はどこに行く~】
このシンポジウムでは、社会の周縁にいる障害者を例に、その存在を「表現」としてどう社会に顕在化しているのか、また、さまざまな人たちの存在を受け入れていくために「表現」どうとらえていけばいいのか、また、社会化することの意義を探っていきます。
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