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線を受け取る
上の写真は、たけし文化センター連尺に通う利用者・大石祐司さんのルーティンワークによってかかれたものだ。大石さんはこれを毎日かく。出来上がるものはいつも同じなわけではない。線は微妙に、少しずつ、ときに大胆に変化する。そこには彼なりの法則がある。大石さんの作業/制作は、「書く」と「描く」の境界、”writing”と”drawing”の境界にまたがりながら、それを運動に変換し、「書く/描く」と「搔く」の間をも越境する。わたしはそれを「ストロークアートStroke Art」と呼んでいる。
stroke(加算名詞)
打つこと,打撃,ひと突き,一撃,(鳥の翼の)ひと打ち,羽ばたき,(クリケット・ゴルフ・テニスなどの)打球,ストローク,打法,(水泳の)ひと掻き, 一筆,筆法,筆使い; 一刀,ひと彫り,(文学作品の)筆致,(字の)一画,字画,(時計・鐘などの)打つ音,鳴ること.
ストロークアートとは、「線を受けとる」ことだ。大石さんのかくそれは、一種の模写であり、また一種の書写でもある。彼は彼の運動を規定してくれるものを探している。彼は彼が見た物の形や記号 ー 例えば、彼が着ているトレーナーのロゴマークや模様、自分の名前や書類に書かれている文字など ー から線を取り出す。線とは、誰かが引いたものである。彼は、線が、それが引かれたものだという事実を元にして、運動を生み出す。すでに完成し、静止している比喩形象を、時間に還元するのだ。
形から線を受け取り、それが運動となって、また新たな線を生み出し、それが形になる。描くことと書くことを、一つの運動として繋ぐストローク。それが、彼のストロークアートだ。
彼のストロークアートを詳細に追ってみよう。
彼はまず、2本の直線をかく。その線は、その次にかかれる線のための枠・格子として機能する。彼は、「直線」と「線」を明確に区別している。直線には終わりがない。したがって、それは紙の端から端まで引かれる。線は、規定された形を実現し、線を運動させるために引かれる。したがって、それは自由に運動を規定する力を持っている。運動は、この直線と線が規定したものに沿って始められる。
形としての円は、運動としての回転を表している。なぜなら、円は始点と終点が一つの線で繋がれており、切れ間というものがないからだ。したがって、その運動は一つの円をえがくことでは終わらない。円は、何度も回転としての運動を繰り返し、幾重にも重ねられる。
一つの運動が線をかき、その線が次の線を規定し、新たな運動を生み出す。これは、わたしたちが普段、文字を書くときの動作に喩えられよう。例えば、「あ」という平仮名を書くとき、まず最初に書かれる横線は、その次に書かれる縦の斜線がなければ意味を成さない。そしてその交差した2本の線は、その後に続くそれらをまたいで交差する曲線を求め、その形を規定する。完成した「あ」の文字もまた、それだけでは意味を成さない。それはまた次の文字を求め、呼び寄せる。
しかし、大石さんが受け取る線は、意味を表現するためのものではない。彼が受け取るのは、線の持つこの運動性、絶え間なく連続して繋がっていく規定された線のストロークだ。一つの線がその次の線を呼び、また次の線を呼び求める。線が線を呼び寄せ、相互に規定し合う。それは、普段わたしたちが文字や記号、抽象的なものなどを描く際に行っていることの裏面である。
わたしたちは、「そこに何が書いて(描いて)あるのか?」という「意味」に捉われて、そこにある運動と時間を忘れているのだ。
大石さんのかく線は互いに排他的な線ではない。したがって、線は幾重にも、際限なく重ねることができる。線は空間を所有しないのだ。線が排他的なものではないということは、わたしたちが文字を書くときに線を重ねていく所作から読み取れるものだろう。「意味」を表現するものに見える文字は、彼の手にかかれば読み取ることが不可能なほどに重ねられてしまう。
大抵、大石さんはストロークを終えると、線がかかれた紙を捨ててしまう。稀に彼がそれを壁に貼ることがあっても、それは飾るためではなく、不要になった紙を彼が処理するための方法に過ぎない。証拠に、彼は壁にそれを次々と重ねて貼ってしまう。特に彼が気に入っている「処理場」は、コピー機の中である。なぜなら、コピー機とは、紙が変容して出てくる場所、白紙に印刷がなされ、次の印刷のためにはもはや使いものにならなくなるような場所だからだ。
ゴミ箱であれ、壁であれ、コピー機であれ、処理が終わると、彼はまたペンを取って新しい紙に向かう。あたかも、運動の時間は静止することなく、常に動き続けているのだと言わんばかりに。
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