スタ☆タン‼︎Z-Across the univers-

2022年5月20日

・新潟/新潟県アール・ブリュット・サポート・センターNASC

あのChaosの祭典が新潟にやってくる…!。なんと研修仕立て!?その名もスタ☆タン☆!!Z ーAcross the Chaosー

日時:2022年3月1日(火) 13:00~16:30

会場:MOYORe:

第一部:レッツ代表・久保田翠による講演
第二部:新潟・浜松各スタッフによる表現未満、についてのクロストーク
第三部:研修参加とスタ☆タン!!、表現未満、を考える

出演:YOHKO 
   Baby☆Baba・52+ゆうじんぐ
   さけつ(映像出演)
   にっちとさっち(映像出演)
   さとちゃん(映像出演)
   こうちゃん(映像出演)
   羊のクロニクルズ(映像出演)
   カワちゃん(映像出演)

司会やトーク:
   角地智史(NASC)
   坂野健一郎(NASC)
   久保田翠(レッツ理事長)
   高木蕗子(スタ☆タン!!キャンペーンガール)
   曽布川祐(レッツスタッフ)
   研修に参加してくださった皆さん

【曽布川は見た!レッツスタッフレポート】(ロングVer.)

※個人的に、障害福祉施設という場所は、色んなものがぐらぐらするところだと思っている。この「ぐらぐら」というのは、世の中の多くの場面で通用する「当たり前」が揺らいでいて、言葉―意味―事実などの関係が外れかかってしまうということだ。それゆえに、その場にいる人たちの間で「当たり前」をより強く固定したいという指向が生まれることは不自然なことではないだろう。しかし、特定非営利法人クリエイティブサポートレッツは、このぐらぐらを楽しもうという指向を持っている。一方、文化事業というものが真実的な意味合いで要請されるのも、同じように何かがぐらぐらしたとき、もしくは、「当たり前」をぐらぐらさせたいときだ。両者の親和性は高い。

 ところが、より強く固定したいという欲求と、ぐらぐらを楽しみたいという指向は、クリエイティブサポートレッツの内部でもたびたび対立し、しかし、そのことが、それ以前には見慣れなかった「形」を作ることに繋がっているように思える。

3月1日に新潟で行われた「スタ☆タン☆!!Z全国ツアーin新潟」に微力ながら参加・協力させていただき、そのレポートを書くことになった。しかし、そのことについての私感を述べるためには、わたしなりに同事業に関連する語彙を整理する必要がある。

「表現未満、」

 「表現未満、」とは、多様性の彼岸を目指すための言葉であり、それは一つの通路である。すなわち、それはあえて表現を通過しないことによって、逆説的に表現=意味を根拠付ける領域に到達しようとするための抜け道としての言葉である。それは、ある系譜的な、また政治的な決定としての「表現」に対する根源的な異議申し立てなのだ。

 しかし、「表現未満、」が「表現」の概念的な意味の拡張を目指すのか、それとも「表現」概念のラディカルな撤廃を目指すのかは判然としていない。あるいは、それは単にちょっとした日常的な振り返りとしての反省を促すためのものに過ぎないのかもしれない。

 いずれにしろ、「表現未満、」は政治用語として提起されているのであり、それによって「表現」もまた政治的な用語であることを明るみに出すものだ。「表現未満、」とは、「表現」がその対義語を覆い隠すことによって成立しているということ、すなわちその系譜上の欺瞞を伝えている。

 「表現」という言葉は、存在論、認識論、心理学による素地を持っている。存在の上では、そこには表現をするための「意思」を持った「主体」があるはずだ、ということ。認識の上では、そこには読み取るべきものとして「記号」あるいは「シーニュ(しるし)」があるはずだ、ということ。心理学としては、その「主体」「意思」と「記号」「シーニュ」には繋がりや連続性があるはずだ、ということ。「表現」は権利問題の論理に従っており、心理学は主体が表現の正当な所有者であることを保証している。それに対し、「表現未満、」というその言葉は、存在論、認識論と心理学の間に割って入る概念として提案されているように思える。すなわち、存在論、認識論において不足/欠如しているものを「表現」と同じ俎上に載せながら、しかし同時にその所有者の正当な権利を主張するのである。それゆえに、「表現未満、」は政治用語として提起されているのである。

■スタ☆タン!!

スタ☆タン!!は、指示以前の表現/意味の領域における系譜の再配分を目指すものだ。鑑賞の対象になり得るものとしての「表現」に対して、そうなり得ないものとして疎外された対象に光を当てようとするためにそのステージは用意されているように見える。そのステージでは、暗に従来の「表現」は、存在論、認識論の所有を独占するものとして、ポストマルクス主義的な批判の対象になっている。しかし、その闘争に関して、ステージ上で具体的な追及はなされていない(それゆえに従来の「表現」は拡張されるべきなのか、撤廃されるべきなのかは曖昧なままなのだ)。従来の「表現」を疎外するものとしての「表現未満、」は、対立をより強固にしてしまうのではないか、という疑問は当然のことながら浮かび上がる。しかし、その対立は避けて通るべきものであろう。

加えて、ここで問題意識を持つべきだと思われることは、非意思的、非主体的、非-記号によって示される、それらの共通感覚の欠如を称揚するものとしてのステージ上に対して、「スタタン」というイベントそのものは、十全な「表現」を持ったものとして催されていることであろう。「表現未満、」というその理念を支えているのは、相も変わらず「表現」なのであり、それは、理性主体が外的なものとして統一的な役割を果たし、それ以外の部分の活動を「支援」する「いつものモデル」の反復に過ぎないのである。

スタタンZ

 スタタンは、2020年に起草者の手を半ば離れ、意思の統一を成すのが困難な複数の人間に企画・運営が委ねられることになった。スタタンは、スタタンZとしてリメイクされたのである。その枠組みに十全な主体性、十全なメッセージを持っていた前者に比べ、後者の特徴はそれらが捉えにくく、「よくわからない」ところにある。スタタンZが「よくわからない」のは、「意思」が汲み取り難く、「主体性」が曖昧で、それゆえに「記号」にまとまりがなく、ちぐはぐな印象を与えるからだ。それは「表現」と「表現未満、」の仮想的な対立を消極的にずらしていくようなものとしてあらわれているように思える(その対立が仮想的であったのは、それが「表現」とそうでないものの対立ではなく、「表現」と「表現」の政治的な対立だったからだ)。

 「よくわからない」ことが、消極的/否定的な意味として現れるのは、「よくわかる」ことと比較されることによってである。逆に言えば、「よくわからない」は「よくわかる」と対になるのでなければ、決して消極的/否定的な言葉ではない。「よくわからない」ことが、それ自身の積極性として捉えられるとき、そこには表現としての政治的な力を持たない「表現的なもの」あるいは「表現的な何か」を見出すことができる。それは政治的イデオロギーの対立としての二つの「表現」を微妙にずらすための力能であるように思える。スタタンZが「表現未満、」に妥当するものだと言いたいわけではない。スタタンZは明らかに「表現」への指向を持っているのだが、それが単に「よくわからない」のだ。それが示しているのは、表現することの不可能性ではなく、「よくわからなさ」を伝達することである。

 この「よくわからなさ」をあえて読みほぐし、スタタンZを解釈するならば、それは日常的に行われているちょっとした行為をその人の「表現」と捉え、鑑賞の俎上に上げることによって、それを見る人の視点に変化を促そうとするもの、ということになるだろう。無意識の領域を意識した精神分析学的な徴候学と重なるところが大きい試みのようにも思えるが、それと大きく異なるのは、行為の裏側や深層を読み取るかどうかは、完全に鑑賞者の恣意に委ねられているというところだ。スタタンZは、鑑賞者にまったく表面的で浅い読みを許す。

スタタンZは、企画者の主体性がフェードされたことの代役を探すように、事業のための専用キットが制作され、事実上「誰でも」実施可能となった。そのことが、今回の出張の理由となる「新潟スタタンZ」開催の契機となったのである。それは言うなれば、固定したいという欲求を消極化することによって、反復と変化のための力能を解放することになったかのようなのだ。

新潟スタタンZ

雪国を抜けるとそこには新潟だった。向こうに何も見えない太平洋を見慣れたわたしには、海の向こうに見える佐渡島がなんだかシュールなものに感じられた。浜松に比べて空が高いように感じられたのは気のせいだろうか。新潟スタタンの会場には、新潟ご当地の極上の駅弁が用意されていた。道中、「せっかくだから駅弁とか買って食べたかったですね」などと話していた我々だったが、そんなわたしたちの心境はあちらの方々もお見通しだったようだ。

わたしたちは、時間的に先行するものについて後になってから語るということに対して慎重にならなければいけない。なぜなら、そこにそのときになかったものが見出されるー物語が逆側から語られてしまうー危険があるからだ。例えば、壮さんが習慣としている石を器に入れて手で「カタカタ」させるその行為を、かつてミュージシャンが「これは音楽ですよ」と指摘したという有名なエピソードがある。ここにはまたしても政治的な要素が含まれている。なぜなら、音楽とは、本来(そのそもそもの成り立ちから)壮さんの「カタカタ」のようなものから作られたのであって、その逆ではないからだ。壮さんの「カタカタ」を音楽だと語ることには、前-音楽的なものに対して、逆側から反省的かつ権威的な「音楽的なもの」がreflectされている。したがって、そのエピソードは政治的な場に相応しいメッセージとして好んで語られるのである。何かの物事について反省し、感想を述べることには、常にこのreflectionがあることを忘れてはならない。それは避けて通ろうと思っても無駄なのだ。

前後の準備・片付けを含めて、イベント時に印象に残ったことを羅列する。

  • Yさん

現地会場内でイベントに参加したYさんは座席に座るなり靴を脱いだ。靴下は履いていなかった。彼女はいつでも靴を脱げるようにしながら履いているのだろう。靴紐が解けているのは、いつものことに違いない。彼女の足の裏は、横から見ても皮膚の色が変化し、硬くなっているのが分かった。彼女が外で靴を脱ぐことを習慣としていることはそこから想像できた。そのことを見せびらかすようでさえある。恐らく靴は、長距離の移動のために履いているもので、彼女なりに安全に配慮しているのだろう。雪国ゆえの習慣なのかもしれない。室内では、そこが土足のための場所であっても、基本的に裸足で歩き回っている様子だった。個人的に靴を脱ぎたくなる気持ちはよく分かる。衣服に比べても靴は固く、窮屈だからだ。yさんは、思ったことを何でも口に出して言うことを己の信条としているらしい。彼女は会場内で、裸足のままで、マスクをしたまま、自身が用意した歌を熱唱した。彼女の歌にはパフォーマンスとしての確かな強度があった。それはまさに「表現」だった。

  • Zoomの画面に映る参加者の方々

 一つのノートパソコンの画面に、10以上の顔が映っている。彼らの顔、表情は大雑把に「見る」ことができる。しかし、これを「見た」と呼ぶことには大いに議論の余地があるだろう。もし仮に、ある映画をこれと同じやり方で(例えば、『ダイハード』が10以上あるノートパソコン上の画面の一つで流れていて、残りは違う映像が流れているような状態で)見たとしても、その映画を「観たことがある」と言うことは難しいに違いない。新型コロナウイルス感染症の感染拡大の防止のために、イベント参加者の大部分はパソコン画面上でのリモート参加となった。しかし、彼ら(もしくはわたしたち)の体験は分断され、バラバラの空間で体験の欠片を拾い集めているに過ぎない。わたしたちに共通しているのは、「パソコンの画面を見つめている」という共通の体験でしかない。結局、そういった場で要請されるのはまたしても言葉 ― 共通の体験を得るためにはあまりにも不都合なものとしての言葉 ― しかないのだ。しかし、言葉には、それぞれの内的空間で狂い咲くことができるといった利点も持っている。そんなわけで、どうにかこの状況に少しでも光明を見出そうと一生懸命話した。上手くいったかどうかは分からない。

  • 休憩、トイレ、駅ビル

 イベントを途中退出してトイレに行くのが好きだ。逃げ場のない空間は息が詰まる。トイレの個室は公共の場の中で鍵をかけることのできる稀少な空間だ。アルスノヴァの施設にもトイレに籠るのが好きな人がたくさんいる。会場は駅ビルの中にあった。最寄りのトイレは使用中のことが多かった。中から特に音もしないのだが内側から鍵がかかっている。みんなトイレに篭るのが好きなのだ。そんなわけで、新潟駅ビル内のトイレをいくつも梯子することになった。家電屋の中のトイレが比較的空いていて使いやすかった。

  • 再現/再演、目撃

 スタタンというイベントは、一度(以上)起きたことが再現/再演されるような場だ。それは、何かが発生する場ではないということだろうか?しかし、「時間」がある以上何かの発生は常に起こっている。それは、同じ曲を演奏するとき、同じ歌を歌うとき、幾度となく見られたら動画をもう一度再生するときでもそうだ。「同じもの」を見ること。目撃者を増やすこと。そうやって、「同じもの」は変わっていく。(曽布川祐)

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