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表現未満、はなぜか社会に広がる
このあいだ、このコラムコーナーに「人間には誰しも表現として表出される前の水源みたいなものがある」みたいなことを書いた。それは、ぼくのイメージするところでは「心の奥の、その人の内面の極めて奥深いところにある何か」みたいなものである。
けれども、「極めて奥深いところにある何か」と書いてみたところで、じゃあぼくたちはその心の動きをどう理解すればいいのだろう、どうやってその心の内面に接近すればいいのだろう、という疑問が当然湧いてくるわけだけれど、その疑問に答えるヒントが、この間、たけし文化センターで開かれたトークイベントにあった。早稲田大学文学学術院の細馬宏通さんをゲストに迎えたものだ。今回はそれについて書いてみる。
この日、細馬先生は、レッツのスタッフが撮影した「表現未満、」に関する映像をいくつか参照しながら、レッツの利用者や、それに呼応するスタッフのやり取りの「行動」を詳細に分解していき、その動作の持つ意味や、そこからどのような解釈が可能かを解説してくれた。
一例を出そう。レッツの利用者とスタッフの佐藤さんが延々とじゃんけんをしている映像がある。佐藤さんはじゃんけんする際に微妙に「後出し」をして必ず勝つように「門番」をするのだけれど、利用者の方は後出しされているのに気がつかず、なんで負けちゃうんだと不思議がる。やっぱり何度やっても勝てない。けれど、回数を重ねるほど利用者のほうが微妙に適応していき、最後はその「後出し」を突破して勝ってしまう、という映像だった。
細馬先生は、じゃんけんが繰り出される動作を何度も見返しながら、どのタイミングで「グー・チョキ・パー」が形成されるのか、目線はどこを向いているのか、どのタイミングで動きが適応していくのかなど、二人の「じゃんけん」の動きを分解していく。
思えば「じゃんけんがどう成立しているのか」なんてことを、ぼくはこれまで考えたこともなかった。細馬先生と二人の行動や動作をつぶさに見ていくと、じゃんけんとは、無意識に繰り出されているようでありながら、その行動様式は異なり、極めて個人的の行為でありつつ、しかしながら二人のセッションによって繰り広げられている、ということが改めて確認できた。
細馬先生の話で、特に印象に残っているものを書いておく。(といってもぼくのメモが元になっているので一字一句合っているわけではないので、だいたいこのような話をしていたということで読み進めてほしい)
---ぼくらは「表現」というと「作者が作るもの」だと思っている。「表現」は明確な意識や意図、意欲があって成り立つものだ。とすれば、「表現未満、」とは無意識、無意欲に行われているものかもしれない。本人は意識していない。けれどレッツのスタッフがそれを発見し、コミュニケーションが行われていくのだ。つまり「表現未満、」とは、他者の介在・やりとりによって成立していくものだと言えるかもしれない。その意味で「作者」は曖昧である。
レッツで撮影された映像を見ると、時間を追って培われたやり取りの表現が残されている。ぼくたちは、今やそれを読み解く側にきている。こうしてレッツの活動によって「表現未満、」が浮かび上がることで、「表現とは何か」という問いもまた生まれる。その結果、明確な意図のある表現の結果としての作品ではなく、その表現に至った「プロセス」をもアーカイブするような動きが生まれていくのかもしれない。
また、表現には終わりがあるが、「表現未満、」には終わりがない。他の施設でペンを使って表現する人を見たことがある。彼はペンのインクがなくなるまで書き続ける。つまり「ここで完成」という点がない。その作品がどこで始まり、どこで終わったのか、みたいなことを考えていくことも面白い。つまり「表現未満、」は芸術作品の鑑賞方法を変えてしまう。---
とまあ、こんな具合にいろいろと思考を揺さぶられる話がたくさんあった。
細馬先生の話を聞いて、「表現未満、」を考えるうえでの「身体性」や「行動」の重要性を再確認できた。なぜそういう動きになるのか。なぜそういう行動をするのか。その動きを他の動きに代替することはできるのか。そんなふうに行動や身体を問うていくと、彼らの心の奥底にある水源のようなものに近づくことができると思う。
そうして行動を見ていくと、ぼくたちの「当たり前の行動」は、当たり前「ではない」ことが見えてくる。特に「障害」の世界から見てみることで、「当たり前の当たり前でなさ」は顕著になる。食べること、排泄すること、移動すること、その他いろいろ。ぼくたちが普段意識しない当たり前にも思える行動も、彼らにとっては困難になり得る。けれど、その困難ゆえに「我流」の動きが生まれたりする。突拍子もないこだわりや、他の誰とも違う行動が生まれたりもする。
その「我流」を見たとき、健常者とされる側の「常識」から見ると、「なんで食べることすらできないのだろう」とか、「汚い食べ方だ」とか、「マナーがなっていない」というように見える。けれど、そういう常識を振りかざしておきながら、ぼくたちは、食べること、排泄すること、移動することが身体的にどう成り立っているかをそもそも知らない。そもそも知らないくせに優劣をつけてしまうわけだ。
けれども、細馬先生は、当たり前の行為を行動学的に分解し、あらゆる多様な行動をパーツパーツに分け、いったんバラバラっと同じテーブルの上に乗せて見せてくれる。それによって「常識」や「健常/障害」といったレッテルが一旦外され、フラットに捉え直す視座を与えてくれるようにぼくには思えた。
そして、その視点で見てみると、突飛に見える行動にも意味や意図があるかもしれないこと、ぼくたちの「当たり前」が実は揺らいでいることや、“正しい”行動なんて実はないのかもしれないということが見えてくる。ぼくらの無意識の行動にしつこくこびりついている「当たり前」こそが、おそらくは「困難」を作っているのだろう。
「表現未満、」は、彼らの動きを、まさにその「健常から見たレッテル」から一旦引き剥がすところから始まる。以前、「表現未満、」とは関係性の言葉だと書いた。表現は一人で確立する。こういう意図でこういう目的のもと作ったものだと自分で説明できるのが「表現」だ。これに対して「表現未満、」は、未満であるがゆえに一人では確立しない。第三者が(多くの場合支援者が)発見し、「これにはこういう意味があったんじゃないか」と解釈して初めて成り立つものでもあるだろう。そういう意味で「関係性の言葉」だとぼくは書いた。
そこで大事なことは、その発見が、単に質の高い支援に結びつくだけでなく、その視点がそのまま「自分や社会にも向いてくる」、つまり「表現未満、」を考えることは極めて再帰的な行為なのだと、ここのところぼくは考えている。
どういうことだろう。ぼくの体験をもとに順を追って確認したい。
彼らと共に過ごすことによって、彼らの「表現未満、」を探ろうという思いが芽生える。観察したり共事したり、行動を分解していったり、スタッフから色々な話を聞くうち、彼らのこだわりやどうしようもなさの根源に触れる。彼らを少しだけ深く理解できたことで、彼らのより良い支援にもつながる。
ここまでは普通の話かもしれない。けれどレッツでは、「表現未満、」を理解しようという目線が、なぜか自分にも向けられるのだ。再帰的であり、双方向的なのだ。互いにフィードバックし合うのである。「こいつがこうであるように、自分にも似たところがあるんじゃないか」とか、「おれも実はそうだった」みたいな感情がなぜか生まれる。つまり、他者を見ているようで自分を見てしまい、自分を理解する回路につながるのだ。
そして、彼らの行動を理解しようとしてこなかったこと、自分の他者を理解しようとする姿勢が欠けていたことに対する反省が生まれたり、人はこんなふうに深く他者を見つめられるのかという驚き、面白さのようなものが見つかってくる。
すると、今度はその目線で、今度は自分の友人や家族を見てみたらどうだろうという気になってくるのだ。「もしかしたら妻のあれもそうなのではないか」「娘のあれも、もしかしたら『表現未満、』なのではないか」とか思えるようになってくるのだ。
最終的には、家族に対して向けられた視点が、友人たちや隣人たちへと向けられ、やがて世間一般の他者へと向けられるようになる。自分が受け入れられたいのと同じように、あいつもあいつも、何かこだわりがあるのではないかとか、あいつだって受け入れられたいのではないかとか、そういう行動に至るのには理由があるはずだ、という気持ちになってくる。
自分ではほとんど気がつかなかったのだけど、これまでは脊髄反射していたぼく自身のコミュニケーションに、「余裕」というか「余白」が生まれていたことに最近気づいた。ぼくは、障害福祉に関わるようになってから、人付き合いが少し楽になった。これまでだったら「あの野郎、ふざけやがって」と思ってしまうようなことに、「なんかわけがあるのだろう」「何が彼をそうさせているのだろう」と、少し余裕が出てきたような気がするのだ。
人間は、いつだって他者との違いで自分のアイデンティティを作ってきた。けれどレッツの現場では、障害のある彼らとの「共感・エンパシー」が自分の内面にも光を当てる。どういう心理的作用なのかはぼくもよくわからない。けれど、やればやるほど、彼らを理解しようとすることは、自分を、そして隣人たちを理解しようとすることに、なぜかつながってしまうのだ。
「表現未満、」とは、その個人の内面(水源のようなもの)に触れるようでありながら、なぜか自分に戻り、そして外に開かれる。なぜかはわからない(知っている人が教えて欲しいくらいだ)。個人の理解しようと思うと社会につながり、他者を理解しようとすると自分を理解することになってしまう。
であるならば、「自分」とはなんだろうか。「他者」とはなんだろうか。「自分の考え」とか「自分の行動」とはなんだろうか。果たして誰かと切り離された確固たる「自分」が存在し得るのだろうか。自分だけが到達し自己決定された「自分」なんてものがあるのだろうか。
ガラにもなくそういうことを考えてしまうのは、これまでずっと、そんなことを考えて生きてこなかったからだ。考えなくても済んだぼくと、考えずにいられなくなった自分とは大きな差がある。考えなくて済んだ時代には、もう戻れそうもない。変わってしまったのだ。そういう変化をじわじわとはみ出させ、共有させていくことでしか、社会もまた変わらないのかもしれない。
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