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支援と共事
8月7日、8日。レッツ観光は通算10日目となった。
ただひたすらに暑い浜松。しっかりと意識を持っていないと熱気で精神がやられてしまうような暑さだった。連尺町の「たけし文化センター」に着く頃にはすっかり疲れ切ってしまった。最高気温がほとんど30度を超えないいわきの民。ヤワである。
この町の夏の厳しさに苦笑いしながら扉を開けて入る。前回の訪問から時間が経ってしまったけれど、ぼくの存在に気づいた人たちが、声をかけてくれたり、手を近づけてきてくれたり、思い思いに挨拶してくれる。むしろスタッフの皆さんのほうがまだ壁を感じるくらいだ。
入口のそばには、印刷された報告書の入ったダンボールが積まれていて、部屋のレイアウトが少しだけ変わった気がするけれど、そこにいるメンツも、流れている空気も変わらない。なぜだか少しうれしくなった。なんとなく、「仕事で来る場所」なのではなく「帰って来る場所」になったのかもしれない。
パソコンを開いてしばらくボーっとしていると、レッツのスタッフの佐藤さんが「リケンさん、屋上で水浴びしましょう」と誘ってくれた。
レッツスタイルの水浴びは前回、入野町の「のヴァ公民館」で体験済みだ。桶に水を入れて、そこに入ってまったりするのである。これが支援になるってんだから面白いよなあと前回の寄稿で感想を綴ったところだ。
建物の裏手にある外階段を上がっていくと、3階の踊り場で、リョウガ君と、前回水浴びを一緒にしたオオタ君が待っていた。リョウガ君はすでにゴーグルと水泳キャップをかぶって装備は完璧。言葉では言わないけれど、すごく楽しみにしているようだ。そりゃそうだよな、暑いもの!
佐藤さんがタケちゃんを連れて来た。5人全員で階段を上がって屋上に向かうと、水色の四角い桶の中にはすでに水が張られていた。
水温は、太陽で少し温められていて完璧だ。オオタくんもリョウガくんも、心待ちにしていた桶に体を入れていく。ひゃあああ、気持ち良さそうだ。気持ちがいいときは言葉にしなくてもすぐわかる。めっちゃいい顔してるもの。
いやあ、みんないい顔をして水浴びしてるなあと、ひとしきり写真を撮って、ふと後ろを振り返ると、タケちゃんはもう下の部屋に戻っていて、佐藤さんが一番いい顔をしながら、水に浸かっていた。どんだけいい顔をしてるんだ。
佐藤:「いやあ、最高ですよ。これでもちゃんと仕事してるんですから」。
佐藤さんは、顔にバシャバシャっと水をかけ、ああああああああああと言いながら、体をさらに深く水に沈めていく。なんだこの空間は・・・。
空は青い。太陽は、刺すような日差しを容赦なく地上に向けている。しかし屋上は、ワイワイ騒ぐ声がするでもなく、リゾートの雰囲気が割るわけでもなく、ただ静かに、水をチャプチャプする音が響いているだけだった。
ぼくは、水の張った桶に足を突っ込みながら考えていた。「こんなふうに支援してくれ」ということが言えない人たちに対する支援とはなんだろう、ということを。
その基本は、やはり一緒に「いる」ということなんだろう。そして、その「いる」に、レッツの場合は、そこはかとなく「いたいように」という言葉が加わる。つまり、レッツの支援の根本は、「その人がいたいようにいることを支える」ということだ。
では、その人はどのようにい“たい”のか。それはわからない。確認のしようがないのだ。利用者の多くは、自分で自分の希望を話すことができない。だから、その「たい」の方向性を探るということを、レッツのスタッフは日々繰り返している。少なくともぼくにはそう見える。
その人は、何が心地よいと思っているのか。その人は、どこにこだわりを持っているのか。どのような時に何がしたくなるのか。何かがしたい時、どのような表情や動きをするのか。それを観察しながら、いつも「たい」の方向性を決めている。スタッフみんなでだ。
けれども、その「“たい”探し」は、蓄積された福祉学の知、というようなものから探るのではなくて、その時々の、こんなときはきっとこれがしたいよな? という、ごくごく普通の感性と共感から始まっている。マニュアルは通用しない。正解もない。探る時の手がかりは、結局、自分の想像力だ。
プールで遊んでいる佐藤さんは、そういうやりとりを心から楽しんでいるようにも見えたし、状況を面白がっているように思えた。支援をしているというのではない。目の前の人と向き合い、付き合う。そういう感じだった。それは潔く、心地よかった。その人といることを、心から「肯定」しているように見えたからだろう。
1時間はプールにいただろうか。ぼくは足を突っ込んでいただけなので、身体中汗だくになり、かなり日に焼けてしまったけれど、プールでなければ見られない表情や、その表情を見たからこその思考が得られてとても満足していた。
いやあ、たかだか水浴びで、これほど考えさせられるとは。やはりレッツの施設には、考えることの種があちこちに落ちている。
その人の「たい」を探す
次の日、ぼくは入野のノヴァ公民館にいた。到着すると、最近になって入野に鞍替えしたオガちゃんが、熱心に車の中を掃除していた。スタッフの高林さんがそばでニコニコしながらそれを見ている。「ほら、オガちゃんは、機械と車が好きだから」と高林さん。
なるほど。掃除機は機械だし、元々オガちゃんは車が大好きだ。車の掃除はオガちゃんにとって最高に楽しいエンタテイメントになり得る。高林さんたちスタッフは、オガちゃんが車が好きであることをゲーセン通いから知っている。そして機械が好きなことも知っている。それをつなぎ合わせて「車内清掃」をひねり出す。とてもクリエイティブだなと感心する。
オガちゃんは、「うわああ、キレイだなあ!」「すごいな、キレイになっちゃうな」と声に出しながら、汗だくになって掃除をしている。好きなだけあって、ものすごく集中している。ゲーセンに行くのと比べたらお金もかからない。
もしかしたら、いつものように、突然飽きてしまったりもするのかもしれないけれど、オガちゃんは、ともかく今この瞬間を輝かせていた。車の掃除が支援になる。それを面白がってしまう。本人の「たい」を支える。これがレッツの支援なんだ。
午後になって、また裏庭を覗きにいくと、オガちゃんと高林さんは、屋根付きの小屋のようなものを作り始めていた。オガちゃんは色々な人がいる空間が苦手で、いつも建物の外に居場所を作りがち。真夏の浜松。熱中症になったら大変だ。
ところが、「冷房の効いた部屋の中に入りなさい」ではない。普通に考えたら「熱中症になったら困る」、「部屋の中に入ってもらわないと困る」になる。何かあったら家族に説明できない。そりゃあそうだ。
ところがレッツの支援は違う。外に入りたくないなら外に居場所を作ればいい。熱中症になるのが困るのであれば、できるだけ陽が当たらない、そして風通しの良い場所を作れば良い、という方向になる。つまり、小屋を作るという支援の選択肢が生まれる。
しかも、それをスタッフは作らない。極力オガちゃんが作るのだ。普通なら支援者がやりがちだけれど、うまい具合に突き放し、同時に、その人の「たい」と結びつける。オガちゃんは機械が好きだから、金づちを使うよりはインパクトがいいかな。そうやってうまく「たい」と紐付けながらやるべきことを決めるのだ。
もうひとつ付け加えると、レッツの面白いところは、それを「支援」の領域に留めないところだ。社会の側に訴えていくために、そのオガちゃんの行動を外に発信したり、観客が学びを得るための「コンテンツ」にしてしまう。そうして社会の側に訴えかけていくのだ。
早速、ツイッターには「オガ小屋」というハッシュタグがついてその模様が投稿されていた。そのうち、「オガちゃんとDIYで小屋を創るワークショップ」とかが始まったりするのかもしれない。そうやって「楽しさ」で当事者性を拡張し、障害とは何かという問いを、参加した人たちや、情報を受け取った人たちの心に種まきしていくのだ。
本人と向き合う。本人がやりたいこと、心地よいことを探る。それを支援として成立させる。そしてそれ面白がり、外部を持ち込んで、福祉の外の人たちの関わりしろを作ることで、障害のある人たちの存在を外部に漏れ出させていく。
それによって知る機会がさらに生まれれば、障害に理解のある人が社会に増えていくかもしれない。社会包摂というやつだ。頭ごなしにこうあるべきという論を展開するのではない。常にそこには、面白い体験と思考が織り交ぜられている。
個々人の「たい」。つまり欲求や欲望。それを押さえつけない。だから、いつも支援は「不真面目」にも見える。けれど、それが何より、その人に向き合うことなのだ。そしてその個人の先に、外部とつながり、社会に広がる回路を作る。結果、当事者性を持った「共事者」が生み出されていく。
なぜそんなふうに自信たっぷりに言えるかというと、ぼくがそうだからだ。
この場所に来ると、ぼくにも支援ができるんだという勇気をもらえる。そして、彼らと接することで、ぼくも障害福祉の当事者なのかもしれないと思えてくる。いや、正しく言えば、ぼくの関わり方は支援ではない。ただ単に、都合のいいところだけツマミ食いするように、そこに関わっているだけだから。
けれど、ぼくは障害福祉に「共事(時)(キョウジ)」している、となら言えると思った。自分の与えられた時間だけだけれど、オガちゃんと一緒に小屋を作る。支援とは言えない。けれども関わりは生まれていて、事を共にしている。
支援ではなく共事。そんなゆるい関わりしろが増えたら、今よりもっと社会は生きやすくなるのになあ。そんな思いを新たにした。
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