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散歩は地球を救う?

レッツ訪問は、これで10回目。20日間分くらいは、もうレッツで過ごしたことになるだろうか。2月。いよいよ佳境に入ってくる。今回の訪問も、ぼくの知り合いを勝手にレッツに連れて行くシリーズだ。ノンフィクション作家の川内有緒さんと、有緒さんと仲良しの、水戸芸術館の学芸員、佐藤マイティさんのおふたりをお連れした。

有緒さんは、我らがいわきの「いわき万本桜プロジェクト」について書いたノンフィクション作品『空をゆく巨人』で開高健ノンフィクション賞を受賞している作家である。現代アートにも造詣が深く、白鳥さんという全盲の男性と一緒にアート鑑賞するという刺激的な取り組みを続けていて、HUFFPOSTなんかにも記事が公開されている(ので興味がある人は見てみて欲しい)。

穏やかに取材を続ける有緒さん
舞さんにじっくりと話を聞いていたマイティさん

で、有緒さんにレッツについて書いてもらったら、さぞかし面白いものになるだろうという直感があったわけだ。そうして声をかけたら、なんと水戸芸術館のマイティさんにも来てもらえることになった。この二人からもいずれテキストが届くはずなので、気長にお待ちいただきたい。

さて今回の訪問、通算10回目の訪問になる。このレポートもすでに15本に達したところだ。15本目までのテキストを収録した『ただ、そこにいる人』という書籍型報告書も完成し、各所への配布も進んでいる。

年度末の報告書だが、一冊の本のようになっている!

いやあ、レッツと関わり始めてなんだかんだでもう10ヶ月が経過している。浜松へ行く時の感情は、「仕事しに行く」から「遊びに行く」へと変化しつつある気がする。いやもちろんこうやってテキストは書くけれど、友人たちに会いに行くような気持ちで浜松駅を降りることが増えた。ここまでゆるりと、しかし長期的に関わらせてもらったのは、初めてのことだ。

さて、この日は、「レッツを取材する小松を取材する」という、とある通信社の編集委員の方も来訪していた。レッツを直接取材するのではない。レッツを取材するぼくを取材して、そこからレッツや福祉のこと障害のことを書きたいそうだった。

ものすごくチャレンジングだな、と思った。このような場所を取材するなら、障害当事者や運営者、家族や支援者を取材するもの。それなのに、観光客を取材しようというのだから少しずれている。直接的でなく迂回して伝えようというその記者さんとは、「伝え方・関わり方」についてかなり話し込んだ気がする。それもまたこのサイトで書いてみるつもりだ。

たけ散歩の愉悦

今回の訪問、本当に歩いてばかりだった。初日も2日目も、多くの時間を散歩して過ごした。おかげで「散歩」についてじっくりと考えることができた。iPhoneをチェックすると、どうも2日間で3万歩くらいは歩いたようだ。運動不足になりがちな時期。ありがたい。

初日は、たけちゃんとの散歩だった。午後、スタッフとのチサトさんがたけちゃんと少し外を歩くというので、みんなでくっついていった。レッツを出て、有楽街という飲み屋街をすたすたと歩き、数百メートルほどぐるりと回ったところでザザというデパートへ入り、その中にあるおもちゃ屋さんの店内をぶらついてレッツへと戻ってくるというルートだ。

ラッパーみたいなかっこいいジャケットに身を包んだTAKESHI

コースを書いちゃうとまあ普通の散歩に思われるけれど、基本、たけちゃんは言うことを聞いてくれない。信号にも横断歩道にも突っ込んでいくし、道を逸れそうになったらこちらが体を入れて阻止しないといけない。基本、だれかがしっかりとついてないと危なかっしい。車が来た時に「危ないっ」と叫ぶと、少し気にしてくれる感じはするんだけど、その辺のさじ加減、多分長く付き合わないとわからないだろうと思われた。

たけちゃんは、歩いている時間のほぼすべての時間、石を入れた半透明のケース(タッパー)を振って常にかちゃかちゃと音を鳴らしている。石が落ちると、散歩中のだれかが石を拾って手渡す。すると、またかちゃかちゃやり始める。道中で気になる石があると拾ってかちゃかちゃやる。たけちゃんは呼吸するようにかちゃかちゃやるのだ。

おもちゃ屋さんでもかちゃかちゃ。後ろにいるのはカワちゃん

とにかく辞めないので、その行為がたけちゃんにとってめっちゃ大事だ(あるいは心地よい)ということだけはわかる。まあもちろん、ぼくがたけちゃんと時間を過ごすのは初めてではないし、散歩するのも2回目だから、たけちゃんが「かちゃかちゃ」が好きなのは知ってたけれど、こうして一緒に散歩していると、よほど大事なんだな、ということだけはよくわかった。

おもちゃ屋でも、興味がありそうなものの前に来ると、ちょっと触ったり、撫でたりしつつ、しかしまたすたすたとたけちゃんは歩いていく。たけちゃんの世話係のカワちゃんも「おい、たけし、こっちだよ」なんつって誘導してあげたり、いつのまにか、観客だったぼくや有緒さんたちも、たけちゃんに介入せざるを得なくなったりして、でも、たけちゃんを誘導しているわけではなく、むしろたけちゃんに誘導してもらってるようにも見え、なんだかよくわからなくなっていたのが正直なところだった。

みんなでまちなかを散歩する(撮影:カワちゃん)

レッツではよくこういうことが起きる。目の前に「障害者」がいる。障害者を支えるべくぼくたちは「支援者」の立場に立っているような気になる。けれど、一方的な「支援する/される」というのはほとんどなくて、それは常に揺らぎの中にあり、自分が支援されていると思うこともあるし、自分という存在があることを、なんとなく認めてもらっているような気持ちになることもある。誤解を恐れずいえば、それが「面白い」のだな。

そしてだ、その「揺らぎの関係」が、そのままある種の「移動演劇集団」のようなものとなって街に繰り出していくというのが面白い。たけちゃんと散歩する集団、つまり「たけちゃんズ」が、「障害者と、その障害者の散歩を支援する福祉施設の人」ではなく、何かものすごく演劇的な集団として立ち現れ、公共空間にはみ出ていく感じがめっちゃするのだ。

ぼくは、散歩するたけちゃんを見ている「観客」のような立場だ。だがしかし、街の人たちからすれば、ぼくたちもまた「演者」の一味であるように見えるだろう。一方、一見すると主演のような立場のたけちゃんも、実は、ぼくたちや街の人たちの様子を「鑑賞」しているかもしれない。演者も観客も、関心も無関心も、常に揺らいでいる。移動するから、揺らぎ続ける。

座り込むたけちゃんと、なんとかしようとするチサトさん

ザザの前で、横断歩道を渡りたくないたけちゃんが歩道に座り込んだことがあった。気持ちはよくわかる。そうやって抵抗するしかないからだ。たけちゃんは言葉では自分を表現しないけれど、そうやって態度で示す。それは「障害」ではなく「そういう伝え方」なのだと思う。ああ、そりゃそうだよな、ここを渡ったら、多分帰る感じになるもんな。街の方がそりゃあ刺激は多いし、やっぱり楽しい。渡りたくない気持ち、すごくよくわかる。

ぼくたちは、なんとかたけちゃんを渡らせようとする。けれど、ここで「おいたけしこのヤロー何やってんだ」と怒ってしまったら、それが周囲に伝わる。レッツの評判はダダ下がりだ。だからできるだけ穏やかに対応するほかない。つまりぼくたちは、ここで「観客の視線」を意識してしまっているわけだ。その意味で、やはり「演者」である。

ぼくは、この連載で、たびたび「レッツを観光しにきた」と書いてきた。ぼくはレッツでは「観客」として来ていると思ってきた。けれど、それが社会に一歩出る、つまり「散歩」することで、たちまち「演者」になってしまうということなのだ。ぼくは外から見たら「当事者」であるように見えたかもしれない。繰り返すけれど、その揺らぎが「散歩」によって生まれているのが面白い。

たけちゃんはおもちゃ屋を2周して出て行った

街の人たちはどうだろう。街の人たちは、別にこの「演劇」を見たくて見ているわけではない。観客ですらない。むしろ、たけちゃんズの繰り広げるドタバタなんて見たくもなかったかもしれない。けれど、見「てしまう」のだ。目撃し「てしまう」のだ。本来、それを見ようとしていなかった人たちに、間違って届いてしまうというやつ、つまり「誤配」みたいなものが生まれる。

ぼくは、これこそ、このレッツのやらんとしていることだと思う。

翠さん(レッツの代表の)は、しばしば「障害のある彼らは社会に波を起こす存在だ」と語る。彼らがいろいろなところで「トラブル」を起こし、そこに波ができることで、彼らの存在を社会に顕在化させ、社会の側に障害を問う。そういう力が彼らにはあるのだと。その力は、何も「本人だけ」に宿るものではあるまい、とぼくは思う。彼らが社会に出るためには散歩の同伴者が必要だからだ。

おそらく、今の社会の情勢から言って、たけちゃんが「ひとりで」街を歩いたら、「迷惑行為」になってしまうだろう。けれど、「スタッフ」がいて、なんならそこに「一緒に歩く人」がいて、それが「集団」のように見えると、「おや? なんだろう、あの人たちは」という余白が立ち現れる。

つまり、たけちゃん一人ではなく、そこに誰かがいて初めて「表現未満、」が立ち現れるということだ。ぼくは過去に何度も「表現未満、」は関係性の言葉だとここで書いてきたけれど、それと同じ話かもしれない。「一緒に」歩く。「一緒に」散歩する。そういう存在があって初めて、石は波になる。

もちろん、それを目撃してしまう「観客」がいなければ波も起きない。レッツの活動は、常に観客を欲する。主役と脇役、そして観客がいて、さらにその関係性が散歩によって公共にはみ出して、そして「揺らいで」こそ、レッツが社会に投げる石は「波」に変化する。レッツで言うところの「散歩」は、身体的な、ストレス発散的な、時間つぶし的な散歩でありながら、極めて「社会的」な行為であり「表現未満、」な行為なのだ。

レッツを観光する者たちよ、どんどん「散歩」すべし!

地獄のオガ散歩

2日目の散歩も本当に楽しかった。

2日目は、いつものように入野の「のヴぁ公民館」に向かい、来所したばかりのオガちゃんとひとしきりおしゃべりしたり遊んだりした後、そのオガちゃんを連れて「オガ散歩」を楽しんだ。台車は持って行かず、なぜかラジカセを持っていくことになった。

オガちゃんは、ぼくのカメラを占有して撮影を楽しんだようだ

スタッフの尾張さんと向かったのは美しき佐鳴湖。オガちゃんは、早咲きの桜が満開の湖畔を猛然と歩きゆく。「きれいだなぁ、咲いてるねぇ」と口にするオガちゃん。邪魔になったのか、ラジカセをぼくに渡し、その代わり、ぼくのカメラに興味を示して撮りたいそぶりを見せた。オガちゃんはメカ好きなので、ぼくのカメラの使い方はほぼマスターしている。オガちゃんの散歩は、ここのところずっと「フォトセッション」だ。

撮影:尾形和記 ふつうに写真がうまい
めっちゃいい顔しているオガちゃんと筆者

尾張さんは、オガちゃんを萎縮させまいと、ぼくらの30メートルくらい後ろを歩いている。何かあったらすぐ来れるような絶妙な距離感だ。せっかくリケンさんたちが来てるんだから一緒に楽しく散歩に行ってきなよ、みたいな感じで、後ろからさりげなく様子を伺ってくれている。

リラックスしたオガちゃん。ぼくらの「そこを右に曲がって佐鳴湖に戻ろう」という提案を聞くこともなく、勢いよく上り坂を登って行く。尾張さんが介入して来たのは、2キロは歩いた頃だったろうか。マジでそろそろ帰らないとキリがない。そう判断した尾張さんは「これ以上行ったら尾張さんと2人で帰る。今戻るならリケンさんたちとみんなで帰れる。どっちにする?」と、二つの選択肢を提示して、オガちゃんにボールを投げた。口調はいつになく厳しめである。

おっかない尾張さんに帰るぞと言われ固まり始めたオガちゃん

オガちゃんは、やっぱり固まる。案の定、想定内。もう何度もオガちゃんと散歩してるし、その度に固まってるからな君は。30分くらいのフリーズではもう驚かないし、こっちだって色々と提案してみるぜ。

結局オガちゃんが納得したのは、尾張さんと帰ることでも、反対に、リケンさんたちと来た道をそのまま戻ることでもなく、その交差点を右折して少しだけ住宅地を回って帰るという案だった。まずは「どちらかを選べ」を提示し、その上でちょっとだけオガちゃんの希望を聞き入れたオプションをつけてあげる、ということかもしれない。そうすると、オガちゃんが話に乗ってくれる可能性が高まる。多分まあ「可能性が高まる」だけだけど。

帰ると決めたらオガちゃん速いよ。ズンズン進んであっという間に「のヴぁ公」に戻る頃、ぼくはすっかり疲れ切っていた、の、だ、が、話はここでは終わらない。なんと、散歩ダブルヘッダーが待っていたのだ! 

昼にセブンで弁当を買い、オガちゃんと一緒に食べ、まったりと午後を過ごすかと思いきや、オガちゃんは満を持してオガ台車準備完了! スタッフの中村さんと、取材に来てた記者さんと、これまた取材に来ていた某局のディレクターさんと2回目のオガ散歩に、さあ出発だ!

オガちゃんがいつも背負っているリュックの中には、膨大な量のCDとカセットが
オガハウス、いい感じに成長して来た

2回目の散歩は、いつものように入野のイオンの方角に向かう。が、イオンに行ってしまったら「終了」なので、うまいこと中村さんが誘導し、住宅街を抜けるルートに入っていく。

の、だ、が、やっぱりオガちゃんは、やっぱり刺激の多いルートに行きたい。イオンのほう、賑やかなほう、帰る方向ではないほうに行きたいのだ。だから「そこを曲がろう」と提案されるたびに固まる。戻ろう、帰ろう、そっちはダメだと言われると、途端にテンションが下がってしまう。

細い通りの交差点。よし、じゃあわかった、オガちゃんの行きたい右のほうに曲がるよ。でもその次の交差点では左に曲がるんだぞ・・・・。けれどオガちゃんは、右には曲がるけど左には曲がらず、そこでまた固まる。よしよし、じゃあそこの交差点はまっすぐ行こう。でもその次の交差点は左な・・・・。

交差点で固まるオガちゃん

とまあ、こんな調子でズルズルとオガちゃんにペースを握られ、曲がり戦術ではどうしようもなくなり、ぼくは「おーいオガちゃん、こっちにかっこいいバーバーショップがあるから見にいこうよ」と声をかけた。

う、乗らない。次にぼくはドラムマシンのアプリを立ち上げて、「戻ってこれで遊ぼうぜ」と声をかけた。するとオガちゃんは、少しそれに興味を持ってくれたようで、確かに首を縦に振った。

よーーーーーーーーし!  オガちゃん、帰ろう帰ろう!

胸をなでおろした一同、明るさを取り戻したオガちゃんと「のヴぁ公」に戻る。

中村さんに帰ることを提案されフリーズするオガちゃん。受難である

思うんだけど、さすがにオガちゃんだって帰りたいだろうよ。みんなから帰ろうと言われて、帰った方がいいかなとは思ってるはず。でも、行きたい、いや帰らねば、いややっぱ行きたい。そんな葛藤をどうすることもできず、フリーズしてしまっているだけなのだ。

いまだにどうしたらオガちゃんのフリーズを解除できるのか、具体的な方策は見えてこない。これをしたらこうなるという「解」が見えない。ただ、少しだけわかって来たのは、ちょっとの間でもオガちゃんと「漂流」してみるということが有効かもしれないということだ。一緒に漂ってみる。まあつまり面白がって「共事」してみるということだ。だいぶ気持ちが楽になる。自分の気持ちが、だ。

オガちゃんと散歩していて防がなければならないのは、例えば、オガちゃんが電化製品のショップでフリーズし、「目の前の商品を買わなければおれはここを絶対に動かんぞ」みたいな状況に陥ることだ。本当に目の前の商品を買わないと動かない可能性があり、「金銭」のダメージが生まれてしまう。これは避けなければならない。過去にはそんなことも実際にあったそうだ。

それに比べたら、交差点で固まることなんて屁みたいなものだ。まだまだ面白がれる余白は残されているし、オガちゃんの「解凍」の手法も百五十万通りくらいあるのかもしれない。

なんなら、「ここでオガちゃんを帰らせたいと思っている自分」について考えてみたっていい。なぜおれはオガちゃんを帰らせたいと思ってるのだろうと。帰って何かやるべきことがあるというのなら、まあそれもわかる。でも、浜松に来ている間、取り急ぎぼくがやるべきことはない。なんなら、ここで1時間でも2時間でもフリーズしてたっていいのだ。漂流できる時間は、意外とある。

もちろん、レッツの皆さんは、時間もあるし、オガちゃんの母ちゃんが迎えに来る時間もあるし、オガちゃん一人に付きっきりだったら、他の利用者の支援ができなくなる。色々な理由から、オガちゃんを連れ戻さなければならないわけだ。けれどぼくはそういうわけではない。「スタッフとは別の回路」でオガちゃんに近づくことができるかもしれない。

散歩に行こうぜ、的なオガちゃん

こんな時に大事なのは、何がオガちゃんをそうさせているのか、を考えること。それと、なぜ自分はそこまでオガちゃんを帰らせようとしているのかも考えてみること。つまり、そうなっちゃっている原因を、自分を含めたその本人のせいにするのではなく、今起きていることの「背景」や「事情」みたいなものを察してみることだ。それが多分「面白がる」ということにつながる。

なんでお前そんなことするんだ、なにしてんだ、ふざけんなよ、ではなく、なんでそんな風になっちゃったのよって、なにがおまえをそうさせてんだよと、ちょっと「他人ごと」みたいにしちゃうことで距離を置いて、脊髄反射的なところから一旦脇道に逸れるわけだ。

脇道に逸れると、そこには思考の原野が広がってる。で、そこで考える。考えてるうちに、どうでもよくなる。けれど、考えないと「よく考えたらこれってどうでもいいな」という結論に至らない。そして、その「どうでもいいこと」がふるいにかけられた後に残った「やっぱり考えなければいけないこと」を、じっくり考えればいいんじゃないか。

オガちゃんにしても、たけちゃんにしても、他の誰にしても、友人との人間関係にしても、社会の分断にしてもそうかもしれない。一旦、直接的な回路を逸れて脇道に入るような思考回路が、案外必要とされているのかもしれないな、とぼくは考えている。

とぼくは考えている、と書いたけれど、正しく書くなら「と考えられるようになった」がふさわしい。レッツに通うようになって、ぼくはそんなふうに考えられるようになったわけだ。10ヶ月前からは想像もできないけれど。

レッツ観光10回目。初日のたけ散歩で「観客」だの「演劇」だのについて考えさせられ、2日目のオガ散歩では「中動態」めいたことを考えさせられる。つまりレッツを観光すると、思考が広がり、その広がりが、やがて「思想や哲学」みたいなところにまでつながってしまうのだ。そしてそのどちらも「散歩」から生まれた。

思えば観光客とは、あちこち「散歩」するものだ。散歩して初めてレッツを「観光」したことになる。それは思考の散歩であり、実際の散歩でもある。歩き疲れてバテるくらいが、ちょうどいいのかもしれない。

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