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ぢべた に ねころがる
先日、仕事終わりに駅前でラーメンをすすり、我が家へと歩いていたところ、ビルの横の茂みでサラリーマンのおじさんが眠っていた。時は華金、夜も酒も深まり、おじさんはきれいに仰向けに横たわりぐーぐーと眠っていた。わたしは心底「うらやましいなぁ…」と思った。
地べたで寝転がりたい、という欲求をいつごろからか抱えて生きてきた。家は何だか違う。散歩で通る公園の真ん中や、日中の熱を孕んだ夕方のアスファルトなど。または、普段歩いている途中に急に道のどまんなかで寝そべりたくなったりもする。色んなタイプの欲がないまぜになった末に出来上がった気持ちだな、という気もするが、とにかくシートなど敷かず、何にも気にせず地べたに大の字にゴロンと転がりたい。
わたしにとってアルスノヴァは「地べたに寝転がれる」場所だ。
みんなだれかしらがどこかしらでゴロンとしている。眠っていたり、起きていたり。ほんのわずか休息していたり。ソファーに寝そべっている人もいれば、階段を枕にしている人、硬い石の床がひやっこいのか、そこに身を寄せて涼を取っている人。たけし文化センターの2階の音楽スタジオになっている部屋に上がると、これまただれかしらが各々のお気に入りの場所に陣取り転がっている。
とは言ってもわたしも最初は(ここは床では…?)(他のスタッフいるしな…)などと躊躇していたが、次第に(こここそがわたしの思い描いていた地べたでは?)と思うようになった。自分のリハビリをしているような気持ちである。
だれかがごろりとしていると、なんとなく横に転がってみる。正直、すごくきれいとは言い難く、やわらかく寝心地がいいかと聞かれれば、微妙な質感の床である。でもそれがよい。横に居る人と目が合って、そのだれかが持っていたぬいぐるみを頬に寄せられる。別のだれかは立ち上がりその場を去ってしまう。別のだれかは、頭に乗せていた大きなクッションの中にわたしを入れてくれた。身を起こしているかいないかの違いだけだが、なんだか関係がほんの少し横たわったように形を変える気がする。
アルスノヴァの地べたに寝転がる。アルスノヴァという場所の内側でみんながしているからできるのか。反対に、道ゆくみんながしていないからしたいのか。どれもちょっと違う。アルスノヴァは安心のある場でいたいが、なんでもありの外では出来ない事の出来る場所、ではない。開いているような閉じているようなアルスノヴァ、身を起こし動く生活と寝床の、狭間にいるような感覚だ。
特別な布団や枕はない。煌々とライトは頭上で光り、すぐそばで爆音でドラムセッションが行われている。誰かの叫び声がする。
なんともいえない感触の、半開きになった生活に横たわっている。
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線を受け取る
上の写真は、たけし文化センター連尺に通う利用者・大石祐司さんのルーティンワークによってかかれたものだ。大石さんはこれを毎日かく。出来上がるものはいつも同じなわけではない。線は微妙に、少しずつ、ときに大胆に変化する。そこには彼なりの法則がある。
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