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表現未満、表現以上

クリエイティブサポートレッツは、3年ほど前から「表現未満、」というコンセプトを掲げたイベントを頻繁に開催している。例えば、歌が好きな利用者のライブとか、何か絵が好きな人の作品展示とか、面白い人と面白いことを楽しむ時間そのものをイベント化しちゃうとか。日々そんな調子で、多様な利用者をアーティストに見立て、彼らを主役にした「表現未満、」のイベントを開催してきた。実は今回、ぼくがこうして関わっているのも、「表現未満、」をアーカイブするという企画だったりする。

これまで色々な活動があって、それで、表現未満、プロジェクトがあるのだ

しかし、この「表現未満、」という言葉、なんだかすごく腑に落ちるようで、しっかりと言語化するのが難しい言葉だ。本当はすごく奥が深いのに、語呂がいいからなんとなく分かったつもりになれてしまう、そんな類の言葉かもしれない。

公式パンフレットにはこうある。

表現未満とは、誰もが持っている自分を表す方法や本人が大切にしていることを、取るに足らないことと一方的に判断しないで、この行為こそが文化創造の軸であるという考え方です。そして、その人の存在を丸ごと認めていくことでもあります。世の中には多様な人々がいます。そして様々な価値観があります。良い・悪いと言った単純な二項対立ではなく、お互いがお互いのことを尊重しながら、新しい価値観が生まれ、共に生きる社会を皆で楽しみながら考えていく。それが、表現未満プロジェクトの願いです。

以前、障害者のアートを取材をしたことを思い出した。芸術の教育を受けていない作家でも、表現欲求に突き動かされて制作された作品がある。アール・ブリュットと言ったりエイブルアートと言ったりする。有り体の表現だけれど、「根源的な欲求」とか、「理由なき衝動」みたいな言葉がその時浮かんだ。

それを思い出したぼくは、「表現未満、」も、きっとそれと似たようなものかもしれないと直感的に思った。違うかもしれないし、あとで更新されるかもしれない。ただ、今現在での理解として、その日はそう理解した(これがわかったつもりになるというやつかもしれない)。

5月30日。レッツが運営する「たけぶん(たけし文化センター連尺町)」に来て2日目の朝だ。ぼくは近所にあるモスバーガーでハンバーガーを食いながら、上に書いたようなこと、つまり「表現未満、」とはなんぞや、ということを考えていた。いや、正確に言えば、考えたのは「表現以上」のことだった。

表現以上。言うなれば、その人の根源的な領域ではないもの。理由があるもの。目的の決められたもの。なんらかの価値が社会的に認められたもの。お金に換算されるものや、「いいね!」を獲得するために練られたもの。クライアントのために作られるもの。そういうものを「表現以上」ということができるかもしれない。つまり、世間に言われている「表現」とされるもの、そのもの。

いかに自分が「表現以上」の世界にどっぷりと浸かっているかを自覚せずにいられなかった。ぼくの原稿は現金に換算されるし、発信した以上、ネットの記事はバズられたいとか思う。そしてもっと原稿料上がらねえかなとか考えていたりする。「表現以上」の世界には、何事も目的があり、意図があり、価値があり、評価がある。とても当たり前のことだ。

しかし、そうやって「表現以上」のことをぼんやりと考えてみたら、逆説的に、ではぼくには「表現未満、」の領域はあるのだろうか、ということを考え始めてしまう。モヤモヤしたままハンバーガーを平らげ、すっかり氷が溶けてしまったアイスコーヒーをゴクゴクと飲み込んで、たけぶんに向かう。

送迎車に乗り込んで、まったりと市内をドライブ

たけぶんに着くと、何人かのスタッフが開所の準備をしていて、ぼくは送迎車に乗せてもらうことになった。レッツは、この「たけぶん」以外にも、浜松市の入野町というところにもうひとつ「のヴァ公民館」という施設を運営している。レッツは、この2つの拠点で合計30人の利用者を受け入れているそうだ。多いのか少ないのか、よく分からない。

内閣府の調査によれば、知的障害者とされる人は、全国に108万人ほどいるらしい。人口1000人当たり9人くらいの計算になるそうだ。ぼくが住むいわき市なら、人口は36万人なので単純計算で324人。浜松市なら人口80万人なので720人。レッツのような施設が、最低20箇所はあってもいいくらいだ。浜松市にはどのくらいの施設があるのだろう。今度調べてみよう。

連尺からまっすぐに入野へ向かえば、車でおおよそ20分ほどだが、利用者の自宅や待ち合わせポイントまで迎えにいくので、ざっくり1時間以上はかかる。ぼくは、送迎車を運転していたレッツのスタッフ、高林さんとおしゃべりしながら入野を目指すこととなった。高林さんからは、とても面白いエピソードをいくつも聞いたので、これは別項で取り上げることとして、話の舞台を「のヴァ公民館」へと移そう。

のヴァ公民館。この異形、たまらない
美しい佐鳴湖。穏やかな空気が流れていた

水浴びは誰の迷惑?

のヴァ公民館にも、重度の知的障害がある人たちが日中を過ごすためにやってくる。公民館のある入野町は、町内に佐鳴湖という小さな湖をもつ住宅地。駅から近い連尺町の「たけぶん」と違い、とても静かだった。こちらは工作やお絵かきなどをしたり、広めの部屋で居眠りしたりしている人が多かった。

ところが、裏に回ってみると状況が違った。決して夏日というわけではないのに、坊主頭の男性がめっちゃ気持ち良さそうに水浴びしていたのだ。

とても気持ち良さそうで、めっちゃ満足げだったツチヤくん

ツチヤくんという。とにかく水が好きで、ダメだといってもポケットに水を忍ばせたり、下着だけ濡らしてしまったりと、ものすごく水にこだわりを持っている。目の前のツチヤくんは、思い切り水浴をびして、とてもいい顔をしていた。

いやあ、水を得た魚とはこのことだ。そばにいた女性スタッフのフキ子さんが言った。「すごい研究熱心だなあ。ツチヤくんは、水に濡れることに対する飽くなき研究心がすごいんですよ」と。

飽くなき探究心! こんなところで大人が水浴びをしてたら「お前風邪引くだろう何やってんだ」となるだろう。迷惑だと怒る人もいるかもしれない。ところが探究心で濡れている、研究のために水浴びしていると捉えると、目の前の行為がものすごくポジティブなものに思えてくるから不思議だ。次第に、水浴びすることとツチヤくんは、もはや不可分のものに思えた。注意しなくちゃいけないのは風邪をひくことくらい。ぼくも水浴びしたくなってきた。

ところがぼくのそんな悠長な思いとは裏腹に、現場には葛藤があったようだ。この日の午後、スタッフのフキ子さんとなんとなしにおしゃべりしていたのだが、「水を浴びさせてもいい」という方針が決まるまで、レッツのスタッフのなかで、さまざまな葛藤があったそうだ。

フキ子さんは、堰を切ったように話をしてくれた。

正直に色々と話してくれたフキ子さん

「ツチヤ君が水で頭を洗ってるとき、何やってんのって叱ってしまって、私は何やってるんだろうって思ったことが結構ありました。そんなとき、スタッフで集まって支援会議をした時、水を浴びて困るのは誰だろうって話をして。久保田さんから、それは私じゃないかって言われて、そうか、困ってるのは私だなんだなって気づいたんです」

「だったら、私ひとりが気持ちを切り替えて、水を浴びてもいい状態で迎え入れればいい。唯一の心配事は風邪をひくこと、洗濯物が増えちゃうことだから、こちらで着替えを用意して水浴びしてもらえば、ツチヤくんのお母さんにも迷惑かからない。それでいいじゃんと決まったんですね。その時は、いやあ考えとしてはそうだけど・・・って、なかなか飲み込めなかったんです」

「それが飲み込めるようになったのは、諦めもあるのかもしれないですね。ツチヤくんって、ちゃんとトイレに行けないんですね。おしっこで濡らしちゃったりしちゃう。そこでまた、なんで漏らすのーって言っちゃって。自分もしんどい。相手もしんどい。今度は下着のシャツだけ濡らすとか、こっそりポケットの中だけ濡らしたりして。それでもダメだって言うと、そのうちペットボトルのジュースをかぶったりしちゃうんです」

「そうしたら、笑えてきたんです。すごいなって。飽くなき探究心だなって。それで、諦められてきた感じですね。それと、怒ってもいいんだって分かってきて楽になりました。私、怒っちゃうことに罪悪感があって。けど、周りの先輩も、そうなるよねって言ってくれて。それはそれでありだって思えるようになった」

「支援とはいえ同じ人間ですから。ああ、私今日はダメだ、調子悪いから代わってくださいって、言っちゃってもいい。そう思えて、ようやく諦められるようになった気がします」

フキ子さんは、ツチヤくんを支援するということにこだわってしまったのかもしれない。そのこだわりが抜けて、フキコさんも解放されたら、ツチヤくんも自分らしくいられるようになった。そう解釈することは無理があるだろうか。

フキ子さんの正直な述懐は、なぜだかとても、ぼくの心を打った。ぼくも似たような葛藤(圧倒的にぼくの方が小さい葛藤だけれど)を抱えていたからだ。

ツチヤくんの表現未満、。紙をちぎったもの

表現未満、とはメガネのようなもの?

また4歳の娘のことを思い出していた。彼女は、毎朝着替えを用意するとき、いつも「スカートがいい」と要求してくる。今日は外遊びがあるからズボンにしなさいといっても聞かない。幼稚園に行くのも、「明日はズボン履くからお願い」といってスカートを持っていくのだが、いざ次の日になってみると、また「スカートがいい」と泣きじゃくる。朝忙しい時にも。毎日その繰り返しで、今ではタンスのなかはスカートが圧倒的に増えている。

スカートを汚されたら困るのは親だ。だから、ズボンを履けというのは親の都合にすぎないのかもしれない。彼女は、別にお尻が汚れようが、蚊に刺されようが構わないと思っている。一方、ぼくたちは服を汚さないように遊ばせるのは「しつけ」でもあるし、要求を通したら、このままわがままな娘に育ってしまうのではないか、とか思ったりしている。

それである朝、クソ忙しい時にそれが始まり、こちらも譲れなくなって、泣いてる娘に無理やりズボンを履かせた日があったことを思い出した。彼女は、その日をどう過ごしただろう。つまらなかっただろうか。案外ズボンでも調子よかったのかもしれない。

その時、あっと気づいた。

彼女がどうしようもなくスカートを履きたいと思っていること。どうしてもスカートにこだわってしまうこと。それって「表現未満、」に近いものなのでは? と。

誰の目に触れるかわからないけれど、何かを作る、作ってしまうということ

理由も意味も打算もない。どうしてもそれにこだわってしまう。彼女にとってそれはスカートだったのかもしれない、そう思ってみた。すると、スカートしか履きたくない娘こそ、我が娘だと思えてくる。スカートを履きたいと思うことは、「わがまま」ではなく「彼女らしさ」のように思えてくるのだった。

それが「表現未満、」の正しい解釈なのかはわからない。だいぶ都合のいい解釈だとも思う。けれどぼくは、ツチヤくんの水浴びと、娘がスカートにこだわることが、それほど大きく異なるものではないと思えた。土屋くんのあのいい顔と、スカートを履いてご機嫌になっている娘が、ちょっと重なって見えた。

そして、その延長線上に、妻にも、父や母にも、というかぼくにすら、そういう「表現未満、」があるのではないかと思えてきた。表現以上の世界に生きるぼくたちは、それを見ようとも、感じようともしてこなかったけれど、「表現未満、」は、何も障害のある人たちだけのものではないはずだ、とも。

ぼくはこう考えている。「表現未満、」とは、メガネのようなものかもしれないと。それをかけると、表現以上の世界では「迷惑行為」とされたものがなぜか許容され、社会的な価値や意図や目的や成果から抜け出した「その人らしさ」が、じわじわと浮かび上がってくるのだ。フキ子さんが、ツチヤくんの水浴びを「飽くなき探究心」だと言ったことにも似ている。表現以上の領域からではなく、その人の本来を見ようとするスイッチが入る、そんなメガネだ。

メガネのまだピントは合っていない。けれど、そういうメガネがあるんだということは実感できた気がする。今はそれがわかっただけでよしとしよう。2日目である。まだまだ先は長い。レッツに通い続けるなかで、メガネの面白がり方、その掛け方が、よりくっきり見えてきたらいい。

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