5月の観光レポート、のようなもの。 - 特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
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5月の観光レポート、のようなもの。

5月の観光レポート、のようなもの。

わたしたちは理解できないものを見ることができない。

2023年5月19,20日 タイムトラベル100時間ツアー

クリエイティブサポートレッツに就職してから、はじめての観光担当としてのツアコンだった。お客さんからの感想は上々で、自分としても楽しくやらせてもらったのだが、何かスッキリしないものがある。わたしは何を見てもらいたかったのか?何を体験して欲しかったのか?もしかすると、わたしたちの日常が、非日常を体験しに来た人たちのそれによって、何か「お洒落なもの」「文化的なもの」「アートっぽい空気」みたいな出来合いのものに当て嵌められてしまったのではないか?

しかし、「観光」あるいは「観光地」というのは、得てしてそういうものではないだろうか。そこにある「驚き」は、ある程度予定されていたものの確認という要素を含むということが、「観光」というものの真っ当な在り方ではないだろうか。そこにある「驚き」には初めから筋書きがあって演じられるものであることがある程度以上予定されている。そのことに改めて失望するのは、あまりにも初心(うぶ)な反応だということにもなるのだろう。

しかし、「ありのまま」とか「自由」とか「純粋」とか、そういう予め用意された言葉に回収されない肌理のようなものをどうしたら「見る」ことができるだろうか。もちろん、観光に参加してくれた人たちの見たものには多様性があるだろう。それは必ずしも上記のような通り一辺倒な言葉に還元されるようなものではあるまい。それに、体験には常に言葉では表現され得ないフェーズがある。それは感想のような形で共有はできないものだが、体験者の中に残り続けるだろう。一泊二日の観光旅行に、どうしたらそれ以上のことを要求できるだろう。わたしの抱えているもやもやは正当なものなのか。

はじめて見るものに囲まれながら、知覚の中に己を分散させてヘトヘトになること。理解できないものを持ち帰って、何年かけてもそれを理解できるものに変えていくこと。

わたしたちは理解できないものを見ることができない。理解できないものには、そもそも焦点を合わせることができないからだ。わたしたちが見るのは理解できるものに限られる。わたしたちの知覚は、わたしたち自身を切り分けて分散することによって得られる。理解できるものとは、自分と共通する何かを持つもののことだ。もし、目の前にあるものを、自分と共通するものを持たないものとして彼岸に押しやるならば、それはいつまでも理解できないモザイクのままだろう。それとは反対に、目の前のモザイクを即座に理解できるものに変えようと思うならば、すでに自分が知っているものによってそれを評価することになるだろう。そうなれば、それを不当な場所に押しやって良しとすることになるだろう。

問題は、時間をかけることだ。「見たことがないものを見る」、「知らなかったことを知る」ために必要なのは、ロジックではない。それを否定性(=「〜ではないもの」)によって取り囲んで理解した気になっても虚しい。わたしたちは、生まれてからさまざまなものを「見る」「知る」ようになるまで、大変な時間をかける。おっぱい、母親、父親、車、ご飯、犬、猫、文字、数字、政治…。それが見えるものとして、理解できるものとして、像を結ぶようになるには、それがじわーっと滲み出てくるまでの計算しようのない時間をかけることが求められる。そのためには、一泊二日という時間はきっと短すぎるのだろうし、それが100時間であったとしても恐らくあまり変わらないだろう。

「見えるもの」の背後で何やら蠢いていたモザイク、見ようとした「鮮明なもの」を遮って邪魔してくるモザイク、ただただ何の像も結ぶことのなかったモザイク、そういったものを持ち帰って、いつかまた別の時間、別の場所で出会ったモザイクにそれが像として重なったときに、それは「見えるもの」になるのかもしれない。今はそういった素敵な出来事が、多くの人たちの日常になるような社会の到来を期待しよう。たけし文化センターでできる体験は、必ずしも他の場所では体験できないものというわけではないだろう。しかし、ここだからこそ鍛えられる視力というものはあるに違いない。わたしたちは光学的になんでも見ることが出来る目を持っているつもりでいながら、その実、常に条件づけられたものしか見ることが出来ない。今回のツアーが、その条件が変化する一因になることが出来たとしたら、やった甲斐があったというものだと思うのだが、果たしてどうだったのだろうか。もちろん、今は何も結論付けられない。(曽布川)