ツアー参加者の感想 vol.04 - 特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
認定NPO法人クリエイティブ
サポートレッツ
ツアー参加者の感想 vol.04

ツアー参加者の感想 vol.04

第2回参加者 Sさんより

 私は前日に浜松へ早入りしていた。初めてアルス・ノヴァ館内に入り、少し雑談していた中でスタッフの高林さんが「僕らも半分利用者みたいなものだからねえ」と言っていたのがこの滞在期間で初めに心に引っかかったことだった。その場にいた竹内さんその発言に同意していた。その二人の真意は分からないが、障害をもつものと障害をもたないものの境が分からなくなる事から来た言葉ではないかと、振り返る中で、今はそう推測している。これは後程また述べようと思う。

1日目、まずツアーの説明を受ける。ツアーといっても、「あれをやって」とか「これを見て」という指示はない。「『ほんとうにやりたいことなのか?』ということを考え、自由に過ごして、感じたことを話して欲しい。自由に利用者とコミュニケーションをとり、分からないことや聞きたいことがあればスタッフに聞いてよい。」とのこと。そして特に、「やりたくないことはやらなくていい。」という言葉が印象的だった。これは予想以上に心地よかった。自分のペースで動けるし、精神的に疲れた時に罪悪感を持たずに休憩することが出来るし、例えば参加者が利用者に延々と遊びを求められたり、ちょっかい掛けられているときに、「求められているから対応しなければならないのではないか?」という責任感から解放されたりすることが出来る。またそれに関連してツアー参加者を見て私が思ったことは、場合によっては嫌であれば「こうされるのは嫌だ」という意思を伝えてもいいということであった。なので「やりたくないことはやらなくていい」という言葉は、スタッフ、利用者、ツアー参加者たちの責任感や自律性を信じているから使える言葉なのかもしれない。やってはいけないことを強いて言えば、1F玄関のドアは開けたら必ず鍵をかけるということ。外に手動で開けられるツマミがあり、内側は鍵で開けるような、一般的な付け方と逆になっている。その扉の鍵は、実際に外に飛び出して事故にあいそうになった(目の前はすぐ車道)利用者がいたからである。その事故がなければ、もしかしたら鍵すら付けられてなかったかもしれないほど規制や義務を“敢えて”設けていないような意図を感じた。またこの日ではなく別の時に久保田代表が「このドアがあるから幸せになれないのかもしれない」と言っていたのがとても印象的(そしてもやもやポイント)だった。話を戻すが、規制をかけないとはいえ、利用者同士が危害を加えたり、なにか危険なものを口にしようとしたりすれば止めるし、決まった時間に飲まなければいけない薬はきちんと飲ませる。とはいうものの、不規則な出来事や音や光などでパニックを起こさせてはいけないと思い、やってはいけないことを聞くと「はじめにそれを聞いてしまうと、最初からそういう目で見てしまうので、取敢えず自由に関わってください。もしどうしても気になる場合はスタッフに聞いてみてください。」とのことだった。その言葉にハッとした。

この施設には課せられた作業はなく、利用者はそれぞれが自由にやりたいことをやっている。床に寝転がっていたり(寝てる間に寝てる場所に沿ってテープ張られたり…殺人現場のよう…)、玄関をウロウロしたり飛び跳ねながら一人でずっと喋っていたり(喋るというより発声?)、様々である。それをスタッフは見守り、時には参加し、利用者が自分でできること以外をサポートし、「その人にしかできないこと」を発見し、可能ならばそれを仕事としてプロデュースする。昼食は利用者とスタッフ一緒に食べる(そうでない時もある)。スタッフや参加者が利用者にお茶を注いでもらったり、食べた後一緒に片づけたりする。その光景に利用者=お客様という図式に当てはまらない感覚を覚えた。床に座ってご飯を食べる利用者もいるし、食べてすぐ寝てしまう利用者もいるが、問題なければそのままにしている。「あまり日中寝すぎると夜寝れず悪循環になるんだよなぁ。」とスタッフは心配するものの、起きることを無理強いはさせない。無理強いして出る悪影響の方を避けているようだ。「ありのままを認める」というアルス・ノヴァの方針故だろうか。1Fはその日の最後に利用者とスタッフ一緒に掃除をする。利用者の掃除の役割は大体決まっているようだ。テーブルを拭き、塵取りで掃き、掃除機で吸い取り、アルコール消毒を行う。壁や机、床に、書いたり貼られたり塗られたりしたものは基本的にそのままにしている。それを代表は「誰かの痕跡が積層されている姿」と表現していた。これは表現を学ぶものとしてとても納得できる。これをきれいさっぱり片付けることは“無かったことになる”ことであると思う。

利用者が帰ったあと、スタッフで振り返りを行う。その時に使用するものが「ヒトマトリクス(通称ヒトマト)」とスタッフが呼ぶもので、紙の中心に人物名、下部に日付を書く。そして人物名の周りに、今日やったことや起こったこと、それについて感じたことや感想を書きそれを丸で囲む。また別の内容を書けば内容毎に丸で囲む。絵や図を書いてもよい。これは利用者についても、スタッフ自身についても人物毎にヒトマトを書く。書いたら隣に回し、渡された人は書かれていることに自身の意見や感想、その他気づきを書き、丸で囲んだり、関係する丸同士を線で繋ぐ。そうして利用者の特徴や問題が起こった際の対処法、スタッフの関係性をみんなで共有することができるマップができる。これを人物ごとにファイリングして保管している。その際に、顔と名前を一致させるためにガイダンス時配布されたリストを使った。基本的に子供は3階、大人は1階で過ごすので、顔写真と名前が階毎に分けられ、誰が何処で過ごすか分かる。そして人によっては、顔が分かるような写真を撮ってはいけないことを示すマークが顔写真に付いている。そのなかで特徴的だったのは、利用者とスタッフの並びがバラバラで、誰がスタッフで誰が利用者か、このリストを見ただけではよく分からないようになっていたところである。レッツのホームページにはスタッフと、「タレント」と紹介されている利用者が分けられて載っているが、(記憶力の無さもあり)ほぼ誰がだれか覚えていなかった。さらには、利用者がスタッフのように振る舞い他の利用者をサポートしようとする人もいれば、スタッフの中に軽度の知的障害を持つ人もいるという。なのでホームページで確認し直す様なことをせず(必要性もあまり感じなかった。)現場でありのままを感じ、観察しながら接するようにした。振り返れば、このリストは敢えてスタッフと利用者の区別をさせない仕組みを感じるし、自分の中の「健常」と「障害」の境界が揺らぐ要素となった。

 

2日目、この日はNPO静岡県作業所連合会・わ の主催するスポーツ・レクリエーション大会に参加してきた。今年で29回目を迎える大会だが、今年で設立して8年目を迎えるアルス・ノヴァは今回初参加で、一つの挑戦・試みであるという。なぜならアルス・ノヴァは身体というより、精神的な障がい(それも人によっては重度な)をもった利用者が通うところであり、所謂作業所でやるような金銭を得るための生産的な作業をしていない、もしくはさせていないところだからである。そんなアルス・ノヴァに通う利用者をこの環境に入れ込んだらどうなるのだろう、という試みであり、そこに立ち会うことができたことは幸運であった。大会への参加は、ツアー企画段階では予定になく、割と突然決めたことのようである。しかしツアー参加者にとってはほぼすべてが突然の出来事であり、とくに問題はなかった。むしろ他の施設の雰囲気と比較できる機会が与えられて良かった。話は逸れるが、代表はアルス・ノヴァでの事業で、「障害のある人の『存在』が仕事=生きることが仕事」にならないかという裏テーマを持っていると話していた。私はその話を聞き、果たして生産性とは何か、具体的な事例を伴ってモヤモヤすることになった。利用者が作品や商品を作って利益を得ることをおもだって行う行為は、障がい者の存在を肯定することにおいて、落としどころに違和感を感じると代表は言う。なぜなら「作業が出来ない障がい者に存在価値はないのだろうか」、という問題に突き当たるからだ。でも、何かしらのサインを彼らは発している。要するに表現している。表現とは、具体的にモノを作り出すことだけではない。そしてその表現を我々は受け取ることが出来る。アルス・ノヴァという存在は、そこに希望を見出しているのだろうと思う。

話を運動会に戻し、参加者を観察してみると、耳をふさいでぶつぶつしゃべっている人、飛び跳ねている人、テンションが上がって奇声を上げている人、スムーズに歩いてない人、車いすの人、耳が聞こえない人、様々いた。あまりアルス・ノヴァの利用者と変わらない様にも思う。しかし壮君はそのなかでも浮いた存在に見えた。知らない場所で人も多く、家族は同行していない。はじめは段ボールや紙をちぎる程度であったが、次第に声や挙動が荒れてきて、もう壮君もここに居るのはきついだろうという判断があり、折を見て早めに帰ることとなった。その間、壮君が暴れたり外に出ようとするのをなだめていたときに、壮君と手をつないだ時があった。壮君の手は思ったより大きく、皮が分厚く少しカサカサしていて、温かかった。私はそこに色々な物語を想像し、頭に巡らせた。そういえば大会中、他の施設の方が、何でこんなやつ此処に連れてくるんだと言わんばかりに数回、スタッフの竹内さんに苦情のようなものを言っていたことがあった。竹内さんは冷静に対処していた。その人は指をさしてせせら笑うような、苦笑いのような表情だった。もしそれが他の施設のスタッフであったならば、障害への理解力不足と大会趣旨の把握不足のように思うし、施設の利用者であったならば、自身が利用者であるにもかかわらず自分と線引きしようとしている態度であったように思う。ふざけるなと思ったが、自分の心のどこかに彼と同じ自分がいる予感がある。もやもやする。

その日の夜、一部の参加者とスタッフと、ゲストハウスで雑談していた。参加理由や、普段やっていること、これからやろうとしていること、ツアーで感じたモヤモヤの共有などが主な話題だった。それぞれ今の生活や将来に対する不安や疑問を持っていて、人によってはスタッフから誘われたこともあり、何か気になるものがあり参加しに来ているようだった。そしてそれぞれどこか不器用だったり、世の中の関係性にうまく順応できないところがあるように思えた。しかし参加者でなくともみな多かれ少なかれそんなところを持っているしある意味当たり前なので、別にそれを美談にするつもりはないが、これは健常者の中に障害を感じた瞬間であったのかもしれない。また今振り返ってみると、代表が「スタッフには福祉出身の人がおらず、それぞれが居場所を求めて集まった」とか、「よそで働けない人がここで働いてる」とかいう様なことを言っていたこととリンクしてくる。参加者も含め、どちらが利用者か分からなくなる感覚を覚えた。

3日目、参加者と久保田代表が話す機会があった。代表の運営するクリエイティブサポート・レッツというものを代表が語るにあたって、「人とつながっていかない親子が『公開家族』を行うことで出来たもの」ということ、「家族とは永遠のテーマ」ということ、「(息子である)壮という存在を肯定すること」といったようなことがキーワードとなっていた。アルス・ノヴァをはじめとする施設や様々な事業はこの思想を軸に動き、「~はアルス・ノヴァ的かどうか」が判断されるのだろうと予測する。よって、これらの施設で行われること、起こること、そこに感じるもやもやはそれを手掛かりに理解に近づくことができると感じる。他には「障害」とは何かという話では、代表は「『あいだ=間』の問題」「『わたし』と『あなた』の関係性」と言っていた。また「周りにいる人が障がい者を気にならなくなること」が、障害がなくなるときであり、また「『アンタッチャブル』にすることが障がい者への壁を作る」というようなことを言っていたような記憶がある。触れていいのかわからない物事の予感。まだまだ見ていないものが私にはある。そういう予感が、私がFacebookに投稿した「もやもやを通り抜けたら、そこはもっともやもやしていました。」という感想に繋がったのだと今振り返ればそう思う。

また、代表は、上記のような「あいだ=間」を多様に創造していくことがレッツのやろうとしていることだと言っていた。しかし私は、既に「あいだ」は創らずとも既に存在していて、アルス・ノヴァで過ごすうちに、その線引きが不明確な「あいだ」の中に自分がいるように感じた。自分の中に障害を認め、利用者の中に健常な精神を認める時に、自分やそのまわりが果たして本当に障がい者か健常者か分からなくなるし、決める必要がない気もしてくる。しかしその一方で未だ壊せない自分の中の線引きがどこかにある矛盾を自分が持っていることに気付かされた。この矛盾した感覚についてどう考えればいいのか代表に聞くと「考え続けること」というような返答をもらった。まだ私には偶然か必然か、「アンタッチャブル」に自らしている、もしくは他者からされている物事が沢山あるのだろう。社会に対してもそう思うし、今回のレッツでの体験に対してもそう思う。実際私は今回利用者のトイレの世話をしていないし、壮君の「便コネ」の光景を目にしてはいない。スタッフが利用者の保護者にお叱りを受けていた場面は見たが、危険な目にあったり、危険な場面を目撃したわけでもない。多分、特に気にせず過ごしていたら、利用者はのびのびとしているように見えるし、はじめは戸惑うが慣れる事も多いので「何だ!きっと障害って考え方で差別意識を取り払えるよ!」というところで留まっていたかもしれない。でも、道路に飛び出して行ったり、襲われたり、便をところかまわず塗りたくられたりしたら、私は本当に彼らを私と同じ人間だと思い、周りに同意を求めることが出来るだろうか。いや、むしろ、同じ人間であると思う必要ないし、健常者同士も、同じ人間と思う必要がないかもしれない。違う生き物だけど、出来るだけ理解に努めるという姿勢の方がなんだかすっきりするのではないだろうか。いやいや、しかし家族に障害をもって生まれた人がいるとき、そんな割り切り出来るのであろうか。ましてや腹を痛めて生んだ子に対して。例えば「こいつへんなやつだなぁ」が障害という意識を生み、「私にもそんなとこあるかもなぁ」が障害という意識が取り払われる時であるとすれば、「こいつへんなやつだなぁ」としか思えない人がいる限り障害という意識はこの世から無くならないのかもしれない。「触れ得ない」ものが「障害」なのかもしれない。今の私にはこれ以上想像できない。

レッツの代表であり母であり、「家族」や「障害」というテーマに向き合う久保田翠さん、夫や、家族に障害を持つ者がいる「健常者」で、レッツを心の居場所としている部分もあり、「『わたし』と『あなた』の関係性」(アイデンティティー?)に悩む娘、重度の障がいを持つ息子、彼らを中心とし、加えて、それぞれが居場所を求めて集まったといわれている福祉畑でないスタッフ、「タレント」と呼ばれている利用者とその保護者、レッツの存在に理解を示さない近隣住民や福祉関係者など…その総体がレッツなのだろうと私は考えている。「未だにレッツって何なのかよく分からない」と言っているスタッフがいたが、それはもしかしたら、レッツは会社というより、人間のような、もしくは人生のような有機的で感情的で相関的な存在だからなのかもしれないと考えた。

 家族という「小さな社会」から世の中の「大きな社会」を見ること。障がい者を通して「わたし」を問うこと。レッツが社会の中に存在する意義は、そのようなところにあると代表は言っていた。解を提示し、マニュアルを作るというより、問い続けるのがレッツという存在であるように私には見える。障がい者の制作物をアートとして「これがアートでござい」と売り出そうと、もしくは受け取ろうとするときの、生活と制作が引きはがされた胡散臭いアートっぽさから離れ、日常の生活そのものを見つめようとする姿に、私はどうしようもなくアートを感じた。

そういえば、スタッフから「レッツは秘境だった?」と何回か聞かれたが、正直分からない。この場合の秘境という言葉は、「宝が眠っている未開の地」のようにも聞こえるし、「触れないようにしてこられたもの」という福祉に携わる当事者ゆえのユーモアを含んだ自虐的なニュアンスがあるようにも受け取れる。正直何とも言えない。そして今回のツアーの、やること見る事を指定せず、考えを促す機会を特に作らず、参加者に任せるスタイルは、個人的にとても良かった。何故なら、自分で求めなければ何も起こらなくなるかもしれないが、その分求めたときには求めた分、もしくはそれにプラスアルファで与えられ、与えられた時の効果が大きかったからだ。逆に最初から色々与えられていたら知った気になり、そこで思考が止まってしまうこともあり得る。でも確かに、最初から情報をもらっていれば主催者が与えたい体験に気づける確率は高いし、積極性がないと情報や感覚が拓かない。何だか、勉強したいことが明確に決まっている状態で大学院に行くのか、大学院に行くことで明確にするのか迷っている状況と似ているような気がする。3日目の最後のスタッフミーティングに参加させて貰ったとき、代表が「興味ない人や、積極的ではないけど気になる人に来てもらうようにするのが今後の課題」と言っていた。でも与えるための用意でスタッフのみんなの仕事が増え、スタッフが仕事を楽しむ余裕がなくなったり、過労で倒れたりするのも嫌だなあと思う。あの不明確で、でもスタッフが楽しげで、その場に集まった人たちで、その場で手さぐりする感じは新鮮だった。参加者が関わることで初めてツアーが完成し、参加者の関わりようによって形を変える感じは何だか燃えた。だから逆に興味ない人たちがそこに集まった場合、行動を指定する必要があるのだろう。だからやはり、このアルス・ノヴァのスタッフや今までの見学者、ツアー参加者は、積極的に「居場所を求めて集まった人たち」なのかもしれない。

私はこのツアーに行くことで晴らそうとした障害に関するモヤモヤと、行った先で新たに生まれたモヤモヤは「アンタッチャブルなものに触れること」を求めた結果の出来事だったので、運営的に見せていいのか分からないことも、もしかしたらそれはレッツそのものを表しており、私にとってはそれも含めてツアーとも取れるものであったように思う。