【スタッフ所感】第8回 ゲスト:松尾亜紀子さん [ひとインれじでんす2024]
第8回 ゲスト:松尾亜紀子(エトセトラブックス代表、編集者)
曽布川祐(認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ)
「自然な固有性も所有権一般も存在しないところ、人がこの非-固有化を認識するところ──そこでこそ、自己固有化のさまざまな運動、幻想、「イデオロギー」、「物神化」、そして象徴界を──時としてそれと闘うために──同定することが可能なのであり、かつてないほど必然化するのである」(※1)
取り急ぎ、上のテキストから始めてみよう。「自然な固有性も所有権一般も存在しないところ」、しかし、その「非⁻固有化」は「認識」される。それは、理解からも、共有からも断絶しているように感じられるに違いない。包摂されることも、それによって連帯することも期待できまい。それでもそれは、認識される。それを認識したのは「わたし」であるが、「わたしがそれを認識した」と主張するためには、あらゆるものが欠けている。それはそもそも誰も理解できない、「わたし」でさえも理解できない。それを誰かに理解してもらおうと、「わたし」の知っているあらゆる言葉を駆使して説明しようと試みても、それは理解からどんどんずれていき、「わたし」が認識した「それ」からどんどん遠ざかっていく。
「それ」が、さまざまなマイノリティのための言説──例えば、フェミニズムやジェンダー論、マルクス主義や反植民地主義など──に辿り着くためには、どれだけの困難、どれだけの不理解、どれだけの曲解を経なければいけないだろうか。様々な苦難を乗り越え、ようやく辿り着いたそのとき、「わたし」が「認識」した「それ」は、どれほどの変形と虚偽を被っているだろうか。「それ」は、「わたし」が本当に「認識」したものと同じものだろうか?「それ」は「わたし」が理解してもらおうと欲したそのときと同じ姿をしているだろうか?わたしはどこかでズルをしなかっただろうか?「わたし」がわたしとして、わたしの権利を行使するために、「わたし」の「認識」を、先に別の誰かによって主張され、確立された有力な言説に同化するために、虚偽や虚飾や創作を行わなかっただろうか?「わたし」と彼、「わたし」と彼女の経験は本当に同じものだろうか?「わたし」は一つの主語としてのわたしを主張するために、すなわちさまざま非₋固有性を脱するために、手近な仮面をかぶって済ませようとしてしまっていないだろうか?
「わたし」が主語としてのわたしを獲得するためには、前₋主語的な状態を経なければならない。しかし、それはいつも上手くいくとは限らない。それどころか、ほとんどの場合は上手くいったとしてもそれは見せかけのことにすぎず、言説は物事の表層を上滑りしていく。なぜなら、それは今まで誰一人として主張したことのない言説だったから。誰一人聞きとる人のいない言葉とは、そもそも発することさえもが不可能だから。
しかし、逆に考えるならば、なぜ「わたし」はこの前-主語的な状態に居留まることができないのだろうか。「わたし」は前-言説的な状態の持つ積極性を言語化せずに表現し続けることはできないのだろうか。もし「わたし」がそうするならば、それはどういったものとして表されるのだろうか。
わたしがこのように考えるのは、前-主語的な認識が言説化されることが、即マジョリティの政治的言説に参与することだから、というだけではなく、実際にそのようにして生きている人たちがいることを──生涯を賭けて前-主語的、前-言説的な状態に居留まろうとする人たちがいることを知っているからである。それは、主体が語り出すためには、自らを「或る阿呆」(※2)とでもするしかないような場所に居留まろうとする人たちである。そういった人たちは、世間から、文学者とか、詩人とか、アーティストとか、障がい者などと呼ばれる。
生きるということ、体験をするということ、何かを知覚するということは、そういった前₋主語的、前₋言説的なことからしか始められない。それは決して理解されない。しかし、理解されないということが、生きるということの前提なのだ。
しかし、それでもわたしは理解されたいと思う。だから、わたしは生きることだけをするわけではなく、遠回りをする。あらゆる言説、あらゆる主語が、この遠回りの結果生まれる。しかし、わたしは遠回りのためにどこを通るのか?どこを通れば、「わたし」が一つの主語として発する言説が「あなた」に届くようになるのか?「わたし」は誰で、「あなた」は誰なのか?
恐らく、「わたし」より前には「あなた」はいない。しかし、きっと「あなた」の前にも「わたし」はいない。「わたし」はどの「あなた」によっても待たれてはいない。だから、遠回りするためのその道は、誰もいない内的な空間を通る。「誰もいない」とは、「多くの人がどこかにはいるが、今ここにはいない」という意味ではない。その空間には、今までも、そきてこれからも、誰一人いたことはない。そのような空間を踏破するための道は、もし外側から眺めていたら、間違った道、あるいは、道なき道に見えるだろう。
しかし、「わたし」はそこで、まったく予期せぬ形で「あなた」に出会うだろう。そのための場所、そのための言葉 ───
※1 ジャック・デリダ『他者の単一言語使用』守中高明訳、岩波文庫、142頁
※2 芥川龍之介『或る阿呆の一生』1927年