かわちゃんと浜松まつり前日譚 - 特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
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かわちゃんと浜松まつり前日譚

かわちゃんと浜松まつり前日譚

かわちゃんは生粋の浜松っ子で、祭りっ子であるから、子供の頃から浜松まつりに親しんでいる。今まで自分の住む町で参加していた彼は、今年、初めて連尺町の法被を着て、ヘルパーと一緒に参戦することになった。

浜松まつりに正式に参加するには、参加する町名と日付が書かれたワッペンを法被に縫い付ける必要がある。手先の細かい作業が苦手なかわちゃんは、しかし最初から最後まで、自分でやる、とゆっくりきっちり縫いあげた。プリントされている黒枠に沿って、ほんのわずかなズレも認めない。この線があったから集中できたのだろう。

絵を描く時も、「好きに描いて」と紙を渡すと彼は途方に暮れてしまうのだが、参考画像があるとそれを見ながら迷わず筆を進める。「何か踊って」と促すと立ち尽くしてしまうけど、お手本の動画を再生すると踊りだす。そうして出来上がる絵や踊りは、参考にしたものとかけ離れた姿で立ち上がってくる(さらに調子が上がると元ネタからどんどん離れて自走あるいは暴走していく)。

話をワッペンに戻そう。針が角へ到達する手前まで来ると、かわちゃんはその位置から、次の辺へ飛んだ。そうやって縫うと、角は出現せず、くしゅっと縮まることになる。つまり、彼は直角に縫うことをしなかった(あるいは、できなかった)。それは技術的な事態ではないと思う。直角に縫うには、角にいったん区切りをつけて、次の角から新たに縫い始めなければならないが、法被にあらかじめプリントされた黒枠には区切りがないから、彼は見たままの線をなぞろうとしたのではないだろうか。知覚されるものと、自分が知覚したもの、知覚を反映したものの間は、いつでも常にずれている。

わたしには、そのずれがとても豊かなものに思える。かわちゃんの描く絵も、踊りも、彼を通してしか現れることのないかたちである。ただの四角い黒枠でさえも、彼の手がなぞると四角ではないものに変化する。かわちゃんは何かを変えようとしているのではなく、ただ受け取ったものをそのまま出力しようとした結果、そうなっているのだと思う。(踊りに関しては、「カッコイイおれ」みたいなことを意識して意図的に味付けしていることはあるかもしれない…)

丁寧に縫ったワッペンを腕に、かわちゃんは晴れ晴れした顔で浜松まつりに参戦した。

 

連尺町のみなさん、今年もありがとうございました!(塚本千花)