「表現のワナビー問題」
内田翔太郎
私はレッツに就職してから特に考えるようになったことがある。それは「表現のワナビー問題」だ。これは私が勝手に名付けて勝手に問題提議しているだけなので、心理学とか哲学とか、それっぽい学問ではすでに違う名前が付けられていて、もう検討され尽くした課題なのかもしれない。それでもこれは興味深いテーマであるので、私は折に触れて考え続けている。
では、表現のワナビー問題とは何かを説明すると、ある行為を本質的に楽しめている場合の幸福度は高いが、ある行為を本質的ではなく、行為すること自体が目的化すると幸福度が低くなるというものだ。
例えば、絵を描く行為について考えると、本質的に楽しんでいる状態というのは(私自身、絵を描かないのでよくわからないが…)描くこと、作品が出来上がることそれ自体が純粋に楽しくてしょうがない状態なのだと思う。
対して行為自体が目的化するとはどういうことかというと、絵を描くことを本質的に楽しむのではなく、”絵描きになる”ことが目的化した状態だ。”絵描きになる”つまり”want to be”(〜になりたい)すなわちワナビーである。
絵を描くことと絵描きになることは似ているようだが実は全然違うものである。絵描きになることが目的化した時点で、本来過程に過ぎなかったものが目的にすり替わり、その結果として絵を描くことの楽しみという本質が失われているように私には感じられる。
しかしワナビーかワナビーでないかは白黒はっきり区別できるものではなく、どの人もどちらの要素も抱えている。ただ、ワナビーの要素が強くなると何かのバランスが崩れ、表現することに必要以上の苦しみを抱える人が多いように感じる。
私はここまで上段に構えて講釈を垂れてきたが、かくいう私もワナビーに囚われた一人だ。私はプラモデルを作るのが趣味なのだが、家にはいわゆる「積みプラ」という買ったはいいけど作らずに積み重なったプラモデルが山のようにある。言うまでもないことだが、プラモデルは作らないと完成しない。ではなぜ作らないのかというと、私の場合は未来の自分はもっと上手に組み立てられるのではないかという可能性の前に、今この瞬間に組み立てるという選択肢を選べずにいる。
その結果プラモデルを作る機会は減り、いつまでも積みプラは積み重なったままだ。いうなれば私は腕のいいモデラーである自分という幻想に囚われ、いつまでも自分の本当の力量を顧みることのない哀れなワナビーなのである。
ワナビーの呪縛を解く方法は、おそらく一つしかない。それは「手を動かす」ことだ。紙や木やプラモデルなど、一つの対象にしっかりと向き合い、自身の感覚を総動員して創作することが必要だ。
一般的に物を作る過程にはなんとなく積み重ねる・拡がっていくイメージがあると思うが、私は作ることに対してまったく逆のことを感じている。作る過程には一度手を加えたものは元に戻らない不可逆の性質がある。真っ白なキャンバスには時代を超える名作が生まれる可能性があるが、一筆一筆書き加えるごとにその可能性は失われていく。しかしだからこそ、可能性を削いでいった先に出来上がるものには肥大化した自己幻想を超えた、生の実感がこもったものが出来上がるのではないだろうか。
そういう意味でいえば、アルス・ノヴァのメンバーは皆、本質を楽しみつくすこと、創作のプロだ。誰も他人の評価など気にせず、筆のストローク、奏でる音など、様々な対象を楽しむことに全力だ。そこにワナビーが入り込む余地はない。
メンバーの様子を見ていると、表現にまっすぐで本当にうらやましくなる。思えば私も子どもの頃はお小遣いを貯めて買ったプラモデルを雑に組み立て、マジックで色を塗り、パーツがなくなったり折れたりするまで遊びつくした。いつからそんな風にまっすぐ創作に向き合うことができなくなったのだろうか。
今度アルス・ノヴァのメンバーを見習って、余計なことは考えずにプラモデルに向き合ってみようと思う。アルス・ノヴァのメンバーと過ごした時間を経た今の私なら、たとえ創作の先に自分の納得するものが出来上がらなくても、それすらも受け入れ、そこへ至る過程を楽しめるような気がするから。