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きょうだいをひらく−−「福祉を編集する!」コラム②
クリエイティブサポートレッツ×EDIT LOCAL「福祉を編集する!」参加者によるコラム。「きょうだいをひらく」というテーマのzineを作成することになったBチームから根木一子さんに執筆いただきました。
2021年12月3日、新潟から新幹線に乗って浜松へ向かっていた。その道すがら、このワークショップに参加を決めた時のことを考えていた。
私は文化芸術分野の中間支援組織で働いており、障がいがある方たちのプロジェクトのサポートに携わって3年が経とうとしている。障害と文化芸術の取り組みは、初めて知る人にはとてもわかりにくく、伝える際の言葉選びにはいつも頭を悩ませている。以前は実際に現場を見てもらうことで理解を広げてきたが、コロナ禍になりその機会も激減。媒体での広報の必要性を感じ、文章での表現方法を磨きたいと思っていた。
今になって振り返る。あのワークショップは何だったのか。
実は、個人的には大きな達成感は感じていたものの、自分がこのワークショップでどのように変わったのか、このワークショップが参加者に何を求めていたのか、正直に言ってよくわからなかったのだ。要するに「福祉のことがよくわかった」とか「文章力が上がった」と言うような、わかりやすいスキルアップではなかったということだ。
では「福祉を編集する!」と題されたワークショップで私は何を得たのか。ここで考えてみたい。
編集と福祉
まず私にとって「編集」という言葉は、わかっているようで説明できない、不思議な言葉だった。雑誌の編集者というと記事を書く人のようなイメージもあるが、ライターともまた違った職業だ。さらに、日常を編集する、プロジェクトを編集する、という使い方もされている。
辞書を引いてみると、このような説明がされていた。
「編集」
一定の方針に従って資料を整理し、新聞・雑誌・書物などにまとめること。また、撮影済みの映像を映画などにまとめること。また、その仕事。(デジタル大辞泉)
こうして改めて編集の意味を知ると、気軽に参加した自分が恐ろしくなるほど、大変なことをしていたと気づかされる。
つまり、情報を「整理し」「まとめる」ことが編集だとすれば、「福祉」と「編集」はとても相性が悪いのではないか。
たとえば「障害」ひとつとってみても、知的、発達、精神、肢体不自由、視覚、聴覚、内部障害、音声、言語、難病…おそらくこの分類でもすべてをカバーできていないだろう。この種別の中にも、さらに様々な障害があり、より細分化され、これらの障がいを重複して持っている人もいる。つまり「障害者」という言葉が指す人々は、途方もないほど多様。福祉サービスの提供などのためにこうして種別で整理することは必要だが、必ず取りこぼされてしまう人が出てくるのも事実だ。
また、これらの情報をメディアで扱う際は、当事者や家族・関係者への心理的な配慮を考えた言葉の使い方、当事者が読むことが想定できる場合は情報の伝達方法(手話、ふりがなをつける、読み上げ可能なテキストデータの用意等)も考慮する必要がある。
整理し、まとめることで、当事者にとって重要なことが見逃されたり、伝えるべき人に伝わらなかったり、誤解やハレーションを生むこともある。「福祉を編集する」とはそれだけ危うく、難しいことだ。それでも今回のワークショップは、その困難に挑むものだった。それはなぜなのだろうか。
福祉をひらく
これは個人的な問題意識でもあるのだが、やはり福祉というものは、とてもデリケートで触れにくいというイメージから、なかなか社会に「ひらかれていない」と感じる。
ここ数年、障害を専門で扱うテレビやウェブメディアも増えてきているが、やはりその生活を知る機会は限られている。プライバシーにも関わるので、取材される側も覚悟が必要だ。
とはいえ、先ほどからあえて障害に限定して述べてきたが、そもそも福祉は障害者のためだけのものではない。
ここでまた、辞書を引いてみたいと思う。
「福祉」
公的な配慮・サービスによって社会の成員が等しく受けることのできる充足や安心。幸福な生活環境を公的扶助よって作り出そうとすること。(デジタル大辞泉)
「成員」や「公的扶助」という言葉がまたわかりにくさを助長している気もするが、要するに「すべての人が幸せになるため」に行われていることなのである。健常といわれる人にも身近な例として、児童福祉が挙げられるだろう。保育所、子ども手当、公立高校の授業料無償化などもその対象だ。
近年、コロナ禍もあり、多くの人が体調や心に不調を抱えたり、生きることや幸せについて考えるようになり、ウェルビーイングなどの言葉とともに「福祉」の概念は浸透しているように見える。
ただ、誰もがいつどんなことがあって障がいを持つかわからない、皆等しく老いていき高齢者になるとはいえ、障害者と健常者が学級や学校で分断されていたり、障がいのある人たちが福祉施設の中に留まらざるを得ない状況を鑑みると、障害福祉は身近に感じることが特に難しいのかもしれない。
つまり、本来「福祉」はすべての人に関わることであるにもかかわらず、「障害」の世界は複雑で閉ざされている。とはいえ、地域で障害者が暮らしていくためには、周囲の理解が不可欠である。では、地域の住民や、自分事ではないと感じている人たちに「福祉」をひらいて、伝えていくためにはどうしたらいいのか。
やはりそこで必要になってくるのが「編集」なのではないか。困難だとしても、様々な人が知恵を持ち寄り、独自の視点や切り口によって伝え方を考えていく必要がある。
「兄弟に障がいがある」ということ
このワークショップでzineをつくるにあたり、チームで取り組んだテーマは「きょうだい児」だった。
障がいのある兄弟がいる人のことを「きょうだい児」と呼ぶことがある。(聴覚障害者の兄弟を持つ聴者のことはSODA(Siblings Of Deaf Adults/Children)という。)
私は仕事をするなかで、障害者本人、両親、後見人、施設スタッフには会うことがあったが、兄弟にはほとんど会ったことがなかった。
言葉自体は知っていたものの、安易に触れられるものじゃないと思っていた。ところが、同じチームのメンバーに当事者がいることが、このワークショップの初日に判明したのだ。
男性2人の会話がやけに盛り上がっているな……と聞き耳をたててみると、どうも1人の男性には知的障がいのある妹さんがいて、もう1人の10代の青年には自閉症の弟さんがいるらしい。2人が今回のワークショップに参加したのは、そういった家庭環境にいたこともきっかけの一つのようだった。
つい先ほど初対面を果たしたばかりの、親子ほども歳の離れた男性たちが、きょうだい児であるという共通点を見つけて意気投合している様子が、印象的だった。障がいのある人が家族にいると聞くと「きっと苦労が多いんだろう」とネガティブに考えがちだが、話している2人は笑顔だ。
私が一人っ子ということもあってか、その光景はとてもキラキラとしていて眩しかった。どこか羨ましい気さえした。
障害のある兄弟がいる、ということは稀有で特別なこととも言えるのかもしれない。その生まれを肯定できる人もいる一方で、その兄弟の存在を隠したいと思わざるを得ない人や、兄弟の介助でヤングケアラー化してしまう人もいる。
今回zineを作るにあたり、レッツの職員である久保田瑛さん(久保田壮さんの姉)にもインタビューをさせてもらった。その時に「「きょうだい児」は呪いのような言葉だ。」とおっしゃっていたのが忘れられない。
「障害がある兄弟がいる」ということは、同じような境遇の人と出会った時の強い共感や連帯につながる一方、その人の人生に付いて回り、時に支配してしまうほど、強い影響があるということではないか。
きょうだいたちの人生
少し話が変わるようだが、2022年に入ってからろう者・難聴者、手話を学ぶ人たちの中でとりわけ話題になっているのが、1月に公開された映画『コーダ あいのうた』である。
この映画では、CODA(Children of Deaf Adult/s、聴覚障害者の両親を持つ聴者を指す)でありSODAでもある少女が、田舎の漁村で手話通訳として家業を手伝いながら、自身の追いかける夢と家庭を支える役割との狭間で葛藤する姿が描かれている。
彼女は通院なども含め、両親や兄の生活全般の手話通訳を一人で担っていたこともあり、都会の大学に進学することを反対される。こういったことは実際にも起きているが、もちろんすべてのCODAやSODAが同じような環境にいるわけではない。
自身の経験や手話のスキルを活かした職に就いている人もいれば、ろうの世界から完全に離れて生きている人、一度離れたが大人になってからまた手話を学び直す人など、それぞれの家庭の事情や方針があるにせよ、様々な人生を送っている。
理想論だと言われるかもしれないが、その人にどんな兄弟がいるか、そのことによって、本人の人生が他人に判断されたり制限されることはあってはならない。それと同時に、兄弟の存在を無いことにはできず、その兄弟がいる環境で育ったことがその人の人生やアイデンティティに少しも影響を及ぼさない、ということも考えにくい。兄弟を愛せる人も、憎む人もいる。
これは、どんな兄弟、姉妹、家族でも同じなのではないか。
福祉を編集する
私たちのチームが考えたzineのタイトルは「きょうだいをひらく」だ。障がいのある兄弟がいる人もいない人も、チーム全員がそれぞれの思う「きょうだい」について、思い思いに綴る。
私は、私たちは、福祉を編集することができたのか。このzineを通して、どんな人たちとつながることができるのか。まだわからない。何も起こらないのかもしれない。
それでも、こうして様々な職種や年齢の人が集まって、頭を抱えながら、福祉について真剣に考える。そして、完璧ではなくても、ごくわずかな人にしか届かなかったとしても、自分たちの言葉で発信していく。こうした場をつくり、ひろげ、他者とのコミュニケーションを粘り強く続けていくこと。これが、福祉を編集することの可能性であり、これからの社会を少しずつでも前進させるものだと、信じて挑み続けること。この信念こそが、私がこのワークショップを経て手に入れたものである。
【参考文献】
澁谷智子(2009)『コーダの世界―手話の文化と声の文化』医学書院、シリーズ ケアをひらく
根木一子(ねぎ いちこ)
アーツカウンシル新潟 プログラムオフィサー
東京都生まれ。青山学院大学文学部フランス文学科卒業。文化庁やワコールアートセンターでインターンシップ経験後、共同通信社の中高生取材活動「文化プログラムプレスセンター」の運営に携わる。2019年4月より現職。新潟市の共生社会事業等を担当。
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