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ザ・羊のクロニクルズ

たけし文化センターで生まれた音楽ユニット・羊のクロニクルズが、「ザ・羊のクロニクルズ」と名前を変えて、再始動した。ザ=Theという英語は、定冠詞で、「特定」「同定」を指示する。それは、存在論的に言うと、正体不明だった旧・羊のクロニクルズが、この「世界」においてその実在性を発見され、特定の位置を占めるものとして同定されたということだ。ザ・羊のクロニクルズは、自らのアイデンティティを得たのである。

活動再開一発目として、ザ・羊のクロニクルズは約8か月ぶりとなるストリートライブを浜松駅前で行った。↓

https://www.instagram.com/reel/C2TuPV6PuaJ/?igsh=NTc4MTIwNjQ2YQ==

ライブには、正規メンバーの田村、曽布川の他に、数名の利用者とスタッフ、さらに当日「タイムトラベル100時間ツアー」に訪れていた4名の観光客が同行した。

他者の目を全く気にせずに突き進んできたこれまでの旧・羊のクロニクルズだったが、改名したザ・羊のクロニクルズは世界の「価値」の体系の中に身を置く立場となったので、当然人の目を気にする義務が生まれてくる。それは世間では「責任」と呼ばれているものだ。

ザ・羊のクロニクルズの演奏は、同行した観光客や道行く通行人の目にどのように映り、またその耳にどのように響いたのだろうか。

ザ・羊のクロニクルズの演奏は、旧羊のクロニクルズの頃から、一貫して相互存在性の度合いにおける共通性を前提することを避けている。それは要するに、「わたしに聴こえているものが、他の人にも同じように聴こえている」という前提を承認しないという態度だ。わたしたちは、互いにどの程度「同じもの」を共有できているのかを正確に測定することはできない。そうなったとき、わたしたちは一般に「合奏」と呼ばれているものを実行することが不可能になる。なぜなら、8ビートのリズムと感じられる一人の演奏者のリズムの区切り方(トントントントントントントントン、トントントントントントントントン、トントントントントントントントン…)が、別の人にはまったく別の区切り方(例えば、トントン、トントントン、トントントントントン、トントントントン、トントン、トントントントン、トントントントン…や、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン、トン…など)に聴こえているかもしれないし、「区切り」や「前後」という知覚形式が成立しないような聴き方(フッサールが音楽の成立を過去把持と未来予持によって規定したことは有名だ。しかし、一つ目の拍子に引き続いて二つ目の拍子がやって来る、ということが果たして本当に知覚の普遍的なあり方であるのかということは疑わしい。なぜなら、わたしたちは知覚したものの維持の長さに長短があるとはいえ、常に忘れていくのだし、またしばしば過去から離れらないものだからだ)をしているかもしれないし、そもそも何も聴こえていないかもしれないからだ。しかし、ともかくわたしたちは「一緒に音を出している」という同時性だけは共有していて、それは決して互いに無関係に音を出しているということではない。

相互存在性を当然の前提とし、その中で仮初の「個」としての「わたし」を基体としているとき、わたしたちは意識上に捉えられるもの以外のものの作用を感じられなくなってしまう。しかし、ザ・羊のクロニクルズ(旧羊のクロニクルズ)の演奏は、この「意識上に捉えられるもの以外のもの」を前提としているのだ。

話を戻そう。ザ・羊のクロニクルズの演奏は、同行した観光客や道行く通行人の目にどのように映り、またその耳にどのように響いたのだろうか?

それは恐らく、「奇妙なもの」として捉えられたに違いない。羊のクロニクルズの音楽体験は、聴く人を一般的な音楽の聴き方に安住させない。それは人をそわそわさせ、居心地を悪くし、場合によっては怒りすら喚起させるかもしれない。しかし、そういった意識上に感じられる「理解(または「わからない」という形で同定すること)」の埒外に、わたしたちが提供する音楽体験はある。

羊のクロニクルズの頭に付けられた「ザ(The)」の語は、そういった同定/特定されざるものを、「同定/特定されざるもの」として同定する、といった意味なのだろうか。断じてそうではない。それは、意識の埒外にあるものの存在を、そのままの姿で感じ取り、一般的には決して同定/特定されたものとしての「ザ(The)」が付かないはずものに、「ザ(The)」を付けることだ。すなわち、それは一般に存在しないと思われるものに存在証明を与えることなのだ。

そういった視点から聴くならば、「ザ・羊のクロニクルズ」の演奏は、決して「奇妙なもの」とは言い得ない。とはいえ、それを特定するための言葉もない。その体験を言い尽くそうと思うならば、膨大な遠回りによる言語を必要とするだろう(例えば、プルーストの『失われた時を求めて』のように)。しかし、本来、体験とはそういったものなのだ。

とにもかくにも「ザ・羊のクロニクルズ」の新たな活動は幕を開けた。今後、それがどういった形に発展していくのかはわからない。きっと面白いことが起こるに違いない。あえて注目してもらう必要はない。見かけたら目を逸らしてくれても構わない。しかし、それでも「ザ・羊のクロニクルズ」の音楽体験は、あなたに何かを伝えるだろう。(曽布川)

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