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漠然とした長期目標のつくり方
福祉サービスにおいて利用者それぞれの支援計画を立てるとき、長期目標と短期目標を定めるように指導されるが、なかなかしっくりくる目標を定められたことがない。原因の1つは長期・短期の書き分けだ。長期目標は1年から3年、短期目標は3か月から半年で達成する目標と考えるのが一般的だが、課題の種類によってはその2段階に無理やり分けて書かされていると感じてしまう。もう一つは、目標が言語化されて支援の方針が明確になるのはよいが、それによって目標が限定され可能性を狭めていないか心配になることだ。短期目標は本人の希望の実現や生活上の課題への対応など具体的な内容になるので言語化の違和感が少ない。一方、長期目標はより抽象的な将来の像を描くことが多いが、それを簡潔な文章で表現しきれないし、私が想像もできない未来があるかもしれないと考えてしまう。
これらの違和感に対して、国分功一朗『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』(新潮新書)にヒントになる話があったので引用したい。この本は2つの講座の内容を書籍化したもので、該当箇所は、1つ目の講座の本題に入る前に参加している高校生・大学生に自分の将来のことをどう考えたらいいか語りかけたところだ。
将来のことに悩むと、そういった短期的な課題に身が入らないことがあると思います。僕がよく学生に言っているのは、とりあえずまずは目の前にある短期的な課題に一生懸命に取り組みなさいということです。(中略)
その上で、自分の人生においてものすごく遠くにあること、将来についてのものすごく漠然としたことを、何となくでいいので考えておいたらいい。曖昧でよいのです。「世の中をよくしたい」とか、「何でもいいから大発見をしたい」とか、「人間とは何かを考えたい」とか、具体的には何を指しているのかがよく分からないことでもいいから、自分の中にあるボンヤリとした関心事、すごく遠くにあることを大切にする。
つまり、ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする。なぜこんな話をするのかというと、その間にある中間的な領域のことはなかなか思い通りにならないんですね。どんな大学に行きたいとか、どんな会社に行きたいとか、そういったことはなかなか思い通りにはなりません。ですからそこに目標を置いてしまうととても苦しいことになる。でも、来週の定期試験の勉強はできますよね。また、「何でもいいんだけど、何か世の中をよくすることをしたいな」とかボンヤリ考えることもできます。
国分功一朗『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』(新潮新書)
これを支援計画の長期目標・短期目標に引き付けて考えていきたい。短期目標は「目の前にある短期的な課題」に対応するが、長期目標は「将来のこと」と「中間的な領域」の2種類に分けられる。そして「中間的な領域」は思い通りにならないことが多いから、そこに目標を置いてしまうと苦しいことになると言っている。目標を立てること自体を否定している訳ではなく、そこにこだわって変更不能なものと考える必要はないと捉えることができるだろう。
また「将来のこと」は漠然としたことを何となく考えておいたらいいとしている。何となく“言葉にする”ではなく、“考える”というのがポイントだと思う。本では「世の中をよくしたい」など簡潔な“言葉”として例に出されているが、漠然と“考える”となると「世の中をよくしたい」の中には、そう思うきっかけになった過去の自分の経験や、あこがれの人物像、思い描く未来の社会の姿など、言葉では表し切れない、その人のこれまでの人生経験そのもののようなイメージが含まれているはずだ。支援計画に話を戻して「将来のこと」を書くとなると、ここでいう「世の中をよくしたい」というように「人との関わりを大切にしたい」とか「健康で長生きしたい」とか漠然とした言葉で示すことが一般的だ。支援計画は利用者を含め関係者が目標を共有するためのものなので、必要であれば、本人の考えを表しきることはできなくても、あらゆる表現方法で本人のイメージに近づけていく努力をしてもいいのではないだろうか。文章で簡潔にまとめるのではなくキーワードをたくさん出すとか、小説や日記で表してみるのはどうだろう。そもそも言葉ではなく写真や絵、音楽、映像で表現してもいいかもしれない。その人の将来像をイメージの断片の集積として共有する支援計画があってもいいだろう。
コメント
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「キーワードをたくさん」「小説や日記」いいですね。形式的になりがちな個別支援計画にちゃんと向き合っているのが素敵です。私も頑張ります!
視点を変え、表現に囚われない(日記、音楽、映像…)、新鮮です。
具現化していく…、想像するに面白そうですね。