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レッツ×ぶんじ寮滞在=「かしだしたけし?」2024/1015-16@東京
・わたしはどこに立てばいい?
るんるん るんるるるん〜、Akiです!
そんなわたしは、「かしだしたけし」でかしだされた「ぶんじ寮」側の人間としてこのレポートを書こうかな、となんとなく思っていた。
だがおそらくそれは無理で、破綻している。
あたりまえだがわたしはぶんじ寮を代表できない。少なくともぶんじ寮には明確なリーダーや管理人がいるわけではないため、一義的に述べることはできない。
それにたけしくんはこなかったし、いつのまにかヌルッとぶんじ寮に滞在することになっていた感じもある。
ひとまず、この「わたし」を起点として使い、あの1泊2日がどういうものだったのかを、わたしの身体とへんてこな技法によって言葉に変換しながらこの場に置いていくことになりそうだ。
・ぶんじ寮?
「ぶんじ寮」とは、立ち上げ時のクラウドファンディングサイトの文言によれば、
「おとなもこどもも、持ち寄ってつくる、安心と冒険とが同居する一人一人の居場所」だそうだ。https://motion-gallery.net/projects/bunji_ryo
ところで、実際はどんな場所なのか?
それはこれまでの歴代の住人や来訪者がそれぞれに掴んで、言語化したりしなかったりしたらいいと思う。そして当然ながら、SNSやインタビュー記事に出ている情報が実際のごく一部に過ぎないことは確かだ。
・レッツとの関係を思い出してみる
レッツの人はけっこうぶんじ寮にあそびにくる。
去年11月に久保田瑛さんがぶんじ寮の住人ミーティングに参加したり、何人か東京に用事があるとかのタイミングで遊びにきたり、元スタッフの人もきたり。
わたしのほうは、レッツに結構前からなんどか滞在したことがある。焚火をしたこともあったし、私の背の高い友人がイベントをさせてもらったりとかも。
そんなわたしだが、初期からの住人としてぶんじ寮の4号室(最も粗末な奥の部屋)をまつしまくんとシェアしている、が多拠点のため常駐ではない。そもそも始まって5年目となり、すべての期間で常駐した人間など、いないのではないか?
そう、わたしの自己や活動の紹介はもう、このサイトをみてほしい。
https://akiiwaya-vscollective.studio.site/
(複数の専門知を掛け合わせてあれこれ、そのためのリサーチやその場にいる口実として記録、ともだち同士を紹介するためにネットワーキングを行ったり。
無理にわかりやすく言うと、「専門は「人が集まること」の脱構築。オルタナティブスペースやコレクティブをまわって、色々しています」)
・事実の記録
ようやくなのにさっそくでわるいのですが、今回の滞在期中の「事実の記録」に関しては、レッツのスタッフ尾張さんの投稿を読んだらいいんじゃないかな。https://note.com/takekatsu2019/n/n96c35ca2ae10
わたしは、わたしが自分の目でみて体験し、感じたことを置いていこうとおもう。
・事前の打ち合わせ
滞在については事前に簡単な打ち合わせをしたけど、ゆるいものだった。
わたしからは、ぶんじ寮にあまり大きな期待はしないほうがよいと伝えた。それよりも、なるべく余白をもって、目の前の出来事に対応できたらいいんじゃないか、と。
余白についての記述は難しい。
わたしが映像イメージを記録媒体として採用することがあるのは、時間そのものを感じてもらうことや、弛緩し間延びした時間の存在を映像に触れる人に提出したいからという動機もある。その反応だって言語でなくて構わない。
だが、今回は文字を用いる。
・まつしまくんのことを少し説明しようかな
はい、忘れないうちにまつしまくんのことを説明しておくね。
彼はぶんじ寮4号室のシェアメイトで、数ヶ月前からはレッツでヘルパーのバイトを月の3分の1?くらいはしている気のいい人間で、ともだち。
今回のレッツとぶんじ寮の間にいるような人間、といったらわかりよいだろうか。とはいえ、まつしまくんなので、たとえば2日目の半分くらいその場にいなかった。ちょっとシャワー浴びてから追いつくね、先行ってて!とか言ってそれきり。でもまつしまくんは、ただその場にいることがうまい。気づけば、お茶をいれてくれている。
・思い出したこと
そういえば、なんかのときに「ぶんじ寮でなにかしたいとき、はじめから許可とかとらなくて大丈夫です。なんかおこったらそこからはじめましょう」って言ったっけ、許可とったら負けですからって。そしたら夏目さんから「うちも同じです」ってかえってきた。
・【taboo持ち寄り会×かたりのヴぁ vol.22 他人と一緒にルールをつくること】を、初日の夜に開いた。
開催レポート兼考察noteのなかから、私が書いた文を引用しようかな。
場のルールなどちょっと独特なので、確認してもらうとよいかもしれない。
いわゆる対話とも毛色が違うこの「タブー持ち寄り会」は、社会的なコミュニケーションバイアス(相手に気をつかって褒めたり、口つぐんだり等)を減らし、自他間の外的対話と自己の内的対話の双方が共存できる場をイメージしてスタートしたもの。
私は、他人と一緒にルールをつくるのなら、その他人=相手とコミュニケーションがとれる/意思疎通がどの程度可能か?によって、大きく左右されてきた、との経験を置いた。
そして、意志疎通ができない、と感じた後の私の判断によってこそ、私の人生が構築されていくように感じているということを。
そう、コミュニケーションのとれない状況や圏域に反発でき、外に出ていかれる人間はいい。だが、外に出て行けない人間はどう扱われるだろうか?
https://note.com/mamangao/n/nf8a33f3d80dc
レッツのスタッフ曽布川さんの視点とあわせて、note全文はこちら。https://note.com/mamangao/n/nf8a33f3d80dc
・フリーライティングがいいのかも
実はレッツのみんなが帰ってから日が経ち、なかなかレポート執筆の話が具体化しなかったため、だんだん私のなかの記憶が薄れてきてた。
なので、率直で実用的な備忘録として(自発的に勝手に)書いたのが、以下の文章。
ちなみにフリーライティングとは、「自己検閲をはずして、頭のなかを流れている言葉をなるべくそのまんま全て書き残す」書き方のこと。詳しくはこのnoteを参照 https://note.com/mamangao/n/nce33a881b232
”10/15。
レッツのメンバーがぶんじ寮に来て朝まで、っていうか3時まで喋ったこととか、
覚えてること、
もう忘れ始めてるって思い始めてから少なくとも5日は経ったいま、から書いている。
誰に向けて書くかといえば、わからない。でも多分先の自分や自分が経験したことに興味を持ちそうなまだいないあなた。アーカイブといわれてもいいかも。
レッツのメンバー、メンバーってのは、利用者とスタッフのこと。そこに半分レッツでぶんじ寮のまつしまくんも含めるか、私はぶんじ寮側の人間にカウントされてそこにいた。観察しながら、半分主体でもある。「かしだしたけし」ていうかたけしくんいない。かわちゃんとかだが。こうちゃん元気かな。
覚えてることは、手とか何度も繋いで、ぶんじ寮に中野から向かう車でも隣で、何十分も隣でいたのに、急に「誰?!」ってでかい声でこうちゃんに聞かれたこと。で、あき!って言い返して、それからあき!って言われ返して、概ねそれ以降あき!って呼んでくれるようになった。
自分は普通のことだとおもったけど、スタッフやまつしまくんは笑ってうれしそうだった。変なの。普通のことじゃんっておもった。相手から聞かれたから自分がこたえたら、向こうがそれをうけいれただけ。「自分は名前もよんでもらえないで『電車』ってよばれるのに」ってまつしまくん。それはまつしまくんと目の前の他人との距離感の生成プロセスの帰結でしょ。受け付けたくないタイプのわらい。ただの他人ってだけで、そこに障害の関係する余地はないよ。
特定の障害を自分の利益になるように隠れ蓑として活用して、全部「力」(パワーの伴った我が儘)で自分の意志を集団に通し続けるプロセスは、うけいれがたい。使い分ける主体の存在が見過ごされてるのでは。「全敗」って表現した人がいたけどおれは試合やめるまで「負け」は確定してないからやめてない、って返したこと。そこは意地負けない勝負でしょ。
でもね、やり返す以外の勝負の仕方もあるんだよ、粘り勝ちとか、勝負じゃない関係性に持ってくとかね。感情をフラットに、総体として保つこと。その都度の、瞬間単位の凸凹や上下はあっていい、でも最終的にバランスはとる。それが二項対立やつまらない対立を回避した、人間の知恵だと思う。性急な結論に落ちないこと。プロセスに留まって続ける、をすること。さっき人類って書こうとしてやめた。でもこれが知恵なのは間違いないし、こういうのをこそバトンするために書いてる。読ませる。読ませたい。自分も読みたい。「私」はただの知恵の乗り物にすぎない、バトンして、風に乗って落ちて、その土地にあった方法で発芽してくれたそれでいい。ボトルシップのような、そのなかに入れられた手紙のような言葉は知恵に化ける潜在性を伴っている。
私の日記、ほんとはもっと色々あったけどいまでてくるのはここまで。11/1の深夜2時。
そういえば、あの日の3時まで話したことは、ぶんじ寮が4年経ってチャレンジより守りや摩擦回避が優先される集まりになったって、そこにいた住人たちと。でも初期からの住人が己の声にまとわりついた強さを鑑みてあまりでしゃばらないでいる自制の空気があった。みたいなやりとりを、隣で断続的にレッツのスタッフが聞くともなく聞いてた空気。そんで自然にしりとりみたいに、外部に対する情報の出し方をわかりやすさ重視でない、複雑さやプロセスを編集せず外に観てもらうほうがいい、って言葉がでた気がする。自分は賛成した。対外的なイメージに当てはまる、当てはめたいことにおさめるために自分から自己編集する行為は危険で、かつ最高につまらない。情報がある種の生命だとしたら、自傷に近いとおもうよ自己編集はって書きながら思ってる。命のない集団はただの自己延命が目的になった装置だよ。自分はそんな集団には興味がないな。
ーー
インタラクションが起こったか?
観察されることは起こったか?
名前きかれた、こたえた、覚えてもらった、わたしも覚えたよこうちゃん
代々木公園の自販機まえで小銭ごそごそ探してたら、かわちゃんから買う飲み物のアドバイスもらった(銘柄を指定された)
散歩、サウナ 鼻歌 スキップー存在の輪郭を形作るそれらの必要
非意味はミトコンドリア、意味との連関が存在の輪郭をつくる
両者のネットワークとしての人間”
・あれから2週間後くらいに、わたしはたまたま鏡の立場になった。
福祉施設を訪ねて、その施設の利用者やスタッフと一緒に朝まで過ごした。
自己紹介などはしなかった。
食材を近くのスーパーに買いにいって料理して、夜更かしして甘いお菓子や辛い麺を食べて散歩して、雑魚寝したら朝だった。いつのまにか知り合っていた。なんか馴染んでますね、とかスタッフの人に言われたのもデジャブだった。
いつのまにか地元の新聞記者の人も一緒にいて、翌朝みんなで朝ご飯たべて解散するころに過ごした時間の感想を聞かれた。困った。言葉が出てこない。
特別なことをした感じがなかったから。
特別でないことに「日常」という言葉を当てるのは、なんだか変だ。日常は日常的に使う言葉ではない。
「普段から人同士として出会っておけば、災害みたいに困ったことがあった時にも安心じゃないですかね。」と言ったらしい。聞かれたからこたえた、そういうときの言葉だ。それが数日後に新聞に出ていたとのこと。わたしは、この「カギ括弧」がまとわりつく構造が邪魔だとおもっている。「わたし」と同じくらいに。
こうちゃんもかわちゃんもぶんじ寮や東京で過ごした時間は、本調子でなかっただろう。
それはそうだろうと思う。わたしも寝不足だったし。
だから2週間後に逆の立場になったときは、耳栓を持参して寝袋で寝た。1回目の夜のいびきのことをおぼえていたから。これは2回目だからできたこと。
だから、2回目にまた会えばいい。
今度は何を持ってきたらいいか考えたり、みんなで相談しておいてほしい。わたしでよければ、アイデアも出せるし。
自分が浜松に行くのもいいかもしれない。
耳栓を持って行くのも、それ以外をもっていくのも、何ももっていかないのもありだと思う。
いろんなアイデアを交換したい。
とりあえず、焚き火なんてどう思う?
そういえば「かしだしたけし」ってなにをするものなのか、対面で聞き忘れた気がする。
それも聞いてみようかな。
・この文章について
好き勝手に書いて、異物感や多面性を均して、統一感をもたらすための編集は行わなかった。わたしの人間観の反映かもしれない。
ーーー
Aki Iwaya:
VS?collective メンバー
『自分の「声」で書く技術 自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』2024 英治出版(企画・監訳)
『オルタナティブスペース&コレクティブ~もうひとつの現実のつくりかた(仮)』2025 刊行予定
”オルタナティブスペース”=既存の社会になかったから、自分たちで編み上げた居場所
”コレクティブ”=人が集まったことで発生した、有機的な運動体
https://akiiwaya-vscollective.studio.site/https://x.com/mamangao
https://www.facebook.com/aki.iwaya.5
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