【スタッフ所感】第6回 ゲスト:伊藤亜紗さん [ひとインれじでんす2024] - 特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
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【スタッフ所感】第6回 ゲスト:伊藤亜紗さん [ひとインれじでんす2024]

【スタッフ所感】第6回 ゲスト:伊藤亜紗さん [ひとインれじでんす2024]

第6回 ゲスト:伊藤亜紗(美学者)

曽布川祐(認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ)

(「わたし」は、他者(性)といったものを信じられない。だから、わたしは別のやり方をしなければいけない。わたしが「存在する」ための方法は、他者の目によって自己を再生することではない。別のやり方──、決して他者としてではなく、常に「共にあること」以外のやり方では存在し得ないようなやり方でわたしと共にあるものについて考えること。それは結局、あるものをあるものとしてそのままで保持することだ。「わたし」があることによってそれ以外のものが現れる。それらのものは「わたし」なしではありえない。しかし、「わたし」がそれらを生み出したわけでもない。それは内的な共鳴なのだ。気を付けなればいけないことは、それらのものを簡単に意味の領野に引き渡さないこと──)

 

何にでも使える一本の道がある。そこは、何でも通ることができる。空気でも、水でも、生物でも、食物でも、無機物でも、人でも。空気は、襞を振動させることによって声となることもできるし、そこから外へ出ていくことも、どこまでも遠くまで行くこともできるし、滞留させて循環させることもできる。この道は現在であると同時に過去であり、どこまでも深く内的で、見えない。隠れていて、隠されていて、何一つ決して明らかにされることはない。「わたし」はその道を通ることにしよう。その道は、わたしの中にあり、彼の中にあり、「わたし」が通ることのできるものである。あらゆる「わたし」、どこにでもいる「わたし」、この世の隅々にまで行き渡ってあるかのような「わたし」が。

 

喉頭が一本の道を二つに分ける、しかし、入口は一つであり、出口もまた一つである。出口の先には、もう道はなく、その道を抜けたものは、消失する。残そうと思っても、蓄積しようと思っても───何らかの痕跡を残すことが出来るだろうと思い、大切なものを扱うように、手でやさしくそれに触れたとしても、外に出たものは、必ず消失する。入口の前にはすべてがあり、それらもまた何にでも使える。消失したものは、二度とまた出てくることはない。入る前にはすべてがある。出ていったものは消え去る。その出口──肛門は、暫定的な出口である。その先にもまた別の出口がある。白く、冷たく、その上に座ることができ、接続を待っている。それは目に見えるが、そこを通過するものは見えず、ほとんど存在しない。しかし、すべては、そこを出るまでは消失しない。そこを出たものは、完全に消失する。わたしはわたしが知覚できる道の中を通過するが、わたしがそうできるのは途中から途中までに過ぎないということだ。

その道では、どんなことでも起こり得る。そこには困難もある。突然塞がって何も通れなくなることもきっとあり得る。わたしは、その道を見張ることにしよう。目に見えないその道を。見張り、通り、流れる、わたしは常にそうしなければならない。

 

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わたしたちは外と内を持っている。外と内とは、それぞれまったく異なる様相をもって動いている(わたしたちの皮膚の下では、さまざまな器官が忙しなく働いている。さまざまな器官は、さまざまな細胞がひしめき合っている、などなど)。外と内は、それぞれ見えるものと見えないものと言い換えることができる。わたしたちはときに見えるものから見えないものを推測しようとするが、どのようにしたらそれは可能になるのだろうか。

外と内、見えるものと見えないもの、あるいは、明らかにされているものと隠されているものは、それぞれまったく異なる論理、異なる倫理、異なる動因を持っている。それゆえ、見えるものの論理、倫理、動因によって見えないものを解釈しようとすれば、わたしたちはとんでもない勘違いをやらかすことになる(例えば、ある歌詞(=シニフィアン)から、ある歌のタイトル(=シニフィエ)に結びつけること、それによってそれが歌(=シニフィエ)であり、歌っている(=シニフィエ)と解釈すること。ただ一節の何でもない声が、次々と意味を呼び寄せ、いつの間にか語られなかった意味の数珠を作ってしまう。しかし、それとて間違いではない。それが間違いではないということが、何よりも大きな間違いなのだ)。

しかし、それ以外の方法があるのだろうか。他者の内的な体験について語ることが、言語使用の行き過ぎを示していないなどということがあるのだろうか。

 

「わたし」たちは、他者と「同じもの」を見るために苦心しなければならない。示差的体系を介しながら「同じものを見ている」ことを了解すること。それは、差異と差異のせめぎ合いによって絶えずズレ続ける。掴んだと思った瞬間にはすり抜けている。見えたと思ったときには変化している。

 

このことが目指しているのは、客観的な観察・分析ではない。観察のためには、観察者とその対象という二つの項が最低限必要であるが、ここにあるのはただ一本の道である。この一本の道は、何にでも使えるが、観察はできない。なぜなら、それは目に見えないからだ。その道は観察できないが、見張ることはできる。その道がいつまでも道であり続けるように、決して塞がることなどないように。その道を見張るために、目を閉じよう、声を出そう、叫び、空気を吐き出し、全身を使って跳躍しよう。その道はきっと塞がりはしない。