《寄稿》村上慧さん [ひとインれじでんす2024] - 特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
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《寄稿》村上慧さん [ひとインれじでんす2024]

《寄稿》村上慧さん [ひとインれじでんす2024]

レッツ滞在記

文=村上慧

新幹線で浜松に向かっていた。知的障害者向け福祉施設の「たけし文化センター」で、「ひとインレジデンス」という一泊二日の滞在プログラムに参加するためである。自由席は混んでいた。電車に乗ることじたい久しぶりだったので、他人の体との距離の近さに慣れることができず、車両の連結部(トイレや洗面台のあるところ)に電車の揺れに押された大きめのスーツケースが、ドアにぶつかりながら飛びだしてきた。私は反射的に手を伸ばし、それをつかまえた。これ以上どこかに滑っていかないように、という親切心からである。しばらくして女がやってきた。私は「あ、これですか?」と尋ねた。 

すこし言葉足らずだったかもしれないが、これを取りにきたんですか? という意味の、私なりに必死の表現である。すると女は、まるで自分の荷物から盗みを働こうとしている不審者を見るかのように、私の足元から頭までを不快そうににらみつけ、そのまま無言で(相槌もなければ会釈もしない、まったくの無動作で)ケースの取手をつかみ、客室に戻っていった。

私は傷ついた。せっかく楽しく読書をしていたのに。普段そういうことは口にしないほうなのだけど、思わず「感じわるっ!」と悪態をついた。もし私が変な蛍光色の服ではなく小綺麗なスーツを着ていて、姿勢もよく、髭も生えてなくて、変な帽子も被ってなくて、さっぱり短髪清潔感100点満点のサラリーマンふうの見た目をしており、「もしかして、このスーツケースの持ち主でいらっしゃいますか? すみません、思わず受け止めてしまいました。では、よい旅を」みたいなせりふを、さわやかな笑顔と共に発することができていれば、あんな不遜な態度を取られることはなかっただろう。私は明らかに、見た目と挙動によって差別を受けた。これだから電車はいやなんだ。乗ると絶対にいやなことが起こる。他人に対して疑心暗鬼になり、心を閉ざすこと。2024年、この国で働いて生きる能力とはつまり、電車でこういうことがあっても、自分をだまして平気なふりができ、何事もなかったかのように読書に戻ることができる力。人に対して怯える力。誰かに声をかけられたら、無言で睨みつける力である、なんてことまで考えてしまった。

やがて浜松に到着し、もやもやした心を抱えたまま「たけし文化センター」の扉を開けると、足元の床でふたりの大人が寝そべっていた。畳とか板間とかではなく、コンクリートの床に直接である。そして、誰ひとりそのことを気にしていない。スタッフたちは同じ空間で打ち合わせをしていて、なんなら私が来たことにも気がついていないくらいの感じで議論に没頭している。この光景を見た瞬間、新幹線での出来事は吹っ飛んでしまった。冷たくて気持ちがいいから床で寝ている、ということなのだろうか? だとしたら、それはよいことだ。いちおう「失礼します」と断ってふたりを跨ぎ、私をこのプログラムに呼んでくれた高木蕗子さんに案内してもらって、奥へと進む。立ったまま斜め上を見つめ、何かに話しかけているひとや、チラシを延々と細長くちぎっているひとがいる。入り口近くの机には、国語辞典の裏表紙とカバーの間に、ハガキサイズの何かの書類やらメモ帳やらをパンパンに詰めた物体が机の上に積まれていて、その持ち主とおぼしき少年は絵を描いていた。色々な声があちこちから聞こえる。「おなかいたい」「ここにいてください」「まだおなかいたい」

階段で2階に上がると、カラーマジックで人の顔の絵をたくさん描いているひとや、一心不乱にスーパーファミコンのコントローラーを握ってゲームに興じているひと、そしてまたチラシをちぎりまくっている人たちがいる。高木さんはひとりひとり名前を教えてくれるが、ちょっと覚えられない。名前よりも先に、その挙動が脳に刻まれてしまう。ふだん人と接するときはまず名前を覚えるものだが、ここでは「動作」が先に目に入ってくるので、名前のような概念的なものは後ろに追いやられてしまう。こんな経験は、ちょっと他ではできない。ギターを弾いて歌っているひとがいたので、なんとなく耳を傾けていると、眉間に深い皺を刻み、険しい表情をしているひとが近づいてきて、高木さんにペンを渡し、床に紙を置いて「いち、いち」と、なにかをお願いしている。高木さんは慣れた様子で紙に「1」と書く。それを見届けると今度は「かに」と言う。高木さんはカニの絵を描く。すると男は次のページを開き、また「いち」という。高木さんが「1」を描くと、今度は「イカ」と言う。高木さんがイカの絵を描く。するとまた次のページを開き……というやりとりを何度か繰り返しているうち、高木さんは痺れをきらし、「もうやだよ」と言って、「したで他の人にやってもらおう」と、男を連れて1階に戻る。私もついていく。

再び1階に戻り、とりあえずお昼を食べて落ち着こうと、高木さんが買ってくれていたカレーを食べる。カレーは辛くて、その日はとても暑い日だったので、私は汗だくになりながら、高木さんからレッツという組織や建物の説明を聞く。「名前がたくさんあってややこしいんですけど」と、「たけし文化センター」「アルスノヴァ」「レッツ」「ちまた公民館」などの名称を図解しながら、高木さんがわかりやすく説明してくれる。しかし集中するのが難しい。すぐそこの床ではまだ人が寝ているし、チラシをちぎりながら急に「ぱちんこ♪ パーラー♪」と歌いだし、そしてまた唐突に「パーラーってなんすか? パチンコパーラーってなんすか?」というひとなどがいるのである。情報量が多い。「情報量が多いというのは、こういうことを言うんだ」と、私は思う。どこを見ても主役がいて、「イベント」が発生している。群像劇みたいだ。

二日間のあいだ私はこの群像劇に巻き込まれつづけ、いま起きたイベントを消化しきれないまま次のイベントが起こり、それが終わらないうちに次のイベントが目に入る、みたいな感じで過ごした。というか、そうやって過ごすことしかできなかった。

ここで出会った人びとを以下に書き出してみる。

 

・「おはようございます!」とめちゃくちゃでかい声で明るく挨拶してくるひと。赤と黒のマッキーで、裏紙にちいさなぐるぐるをいくつか描き、それをじっと観察している。かと思うと、マッキーのほうを観察しはじめる。やがておもむろに日本地図らしきものを描きはじめたかと思うと「テレビ! テレビが流れていきますよ!」と、突然の実況がはじまる。私には、ここにテレビはないように思える。描き終えたマッキーは蓋をしてケースにしまい、そのケースもちゃんと蓋をしている

・私の手を触り、「おとうさん」と呼んでくれる少年。観察していると、いろいろなひとに「おとうさん」と声をかけている

・トランペットを常に唇にあてながら歩いているひと

・葉っぱをちぎって鼻に近づけ、香りを嗅いでいるひと。テイスティングするかのような動作だ

・チラシを同じ大きさのちいさな正方形にちぎり、一枚ずつビニール袋にいれているひと

・ずっとチラシをちぎる作業をしていたが、みんなで出かける時間になると「紙びりびりの作業はこれで終了なんで、もう出発時間なんで」と大きな声で宣言し、立ち上がるひと。でも直後に「まだ時間あるからもうちょっとやろうかな」と再開していた

・「わたしカニにとりつかれてたことがあって。すごいカニを新聞紙でつくったり、カニの絵を描いたりしてて」と言いながら鮭の被り物を作っているひと(高木さん)

・外を歩いていて、突然の屈伸を決めるひと。ノーモーションですばやく膝を落とし、すぐに立ち上がり、また歩きはじめる。予想がつかないから、後ろを歩いているとぶつかる

・ごはんを食べている最中、カルピスの原液とスプーンを手にやおらテーブルからすっくと立ち上がるひと。スタッフから「なんでスプーン持ってんの? なんでスプーン持ってんの?」と言われている

・トイレのドアを開けると、体育座りが崩れたみたいな姿勢で床に座り、壁を見ているひと(三回目撃した)

・常にズボンが下がってくるひと。そのたびに両手でウエストをつかみ、ぐいっと上げている

・本を机の上に置き、表紙をたたきながら本に声をかけている、DANGEROUS ANIMALSと書かれたTシャツを着ているひと

・「だんご三兄弟」が流れるなか、マイクをもって歩きまわり「アウ!」「クウ~」「ジミヘン!」「ダ、ハンプストン!」「ばかだなあ」などとシャウトしながらジャンプするひと

・普段は利用者として過ごしているが、夜になるとスタッフとして他の(より障害の度合いが重い)利用者のご飯をつくったりもするひと

 

印象的だったのが、ワンピースが似合う女のひと。にこにこしながら近づいてきて、不意に手を伸ばして私の帽子をとりあげ、顔をぺたぺたと触ってきた。どきっとした。顔というのは、ふだん他人に触られることのない部位である。家族でさえ、顔への接触は緊張がともなう。すくなくとも初対面のひとから触られたのは、これが初めてだ。

触るという行為は、コミュニケーションの中でも最強で、問答無用な感じがある。他の利用者やスタッフたちも、お互いに手を握ったり、顔や頭を触ったり、仲よさそうにつつきあったりしている。たえず体の接触が起きている。触ったり触られたりすることが多い空間。何人かは私に対しても気軽に手を握ってくるので、そういう惑星に来たような気分になる。そしてなんとなく、この星にいると健康になれそうな気がする。誰かに触ること、それ自体に「嬉しさ」がある。

触るという行為の他に、コミュニケーションや、福祉のあり方についても、いくつか思ったことがある。

 

・利用者とスタッフが仲よさげに話したり触れあったりしている場面をたくさん見て、彼らが育んできた時間を見せつけられているようで、羨ましいと思った。「羨ましいと思っちゃいました」と、あるスタッフに話したら、たしかにそういう面はあるかもしれないけど、とはいえこれは「サービス業」で、利用者は「お客様」なので、私たちスタッフとしては相手にとって心地よいコミュニケーションを、仕事としてやっている面もある、と言われ、はっとした。たしかに「仲よさそうでいいなあ」なんて感想は、あまりにも牧歌的にすぎるかもしれない

・利用者とふたりきりの場面と、他にスタッフがいる場面とでは、自分の振る舞いが変わる。ふたりきりだったら、そこで世界が完結しているので、私も普段自分に(無意識に)課しているルールを取り払い、いろいろなコミュニケーションを試すことができる。いきなり歌ってみたり、寝てみたり、身振り手振りを交えて、相手と全力で向きあうことができる。しかしスタッフが近くにいると、途端に自意識が肥大化し、私は自らを一般常識という名のルールで縛ってしまう。おとなしくなり、利用者とのコミュニケーションがぎこちなくなる。この感じは、英語を話すときに似ている。英語しか話せない人と一対一のとき、私はつたないながらも全力で相手にぶつかれる。文法や単語の間違いを気にせず、とりあえずなんでも口に出してみて、「とにかく何かが通じればいい」と開き直ることができる。しかし日本語も英語も喋れる人がいる場では、私は自分が話す英語の間違いを気にするようになってしまい、本気でぶつかることができない

・たけし文化センターは、あえて浜松の中心市街地に建てられている。レッツのウェブサイトによると「重度の知的障害のある人たちが中心市街地に、出かけ、トラブルも含めて、近隣のショップや、行き交うその姿を通して、まちに様々な影響を与えていけるのではないかと思います。障害のある人のありのままの姿が、人々の人生観を変えていくのではないかと考えています」とある。このようなコンセプトなので、たびたび利用者が失踪してしまったり、近隣でトラブルを起こしたりと、ある意味では狙いどおりのことが起きていた。とはいえ利用者が事故に巻き込まれたり、警察沙汰になったりするのを防ぐためには、出入口を常時解放しているわけにもいかず、常にスタッフが目を光らせ、利用者が勝手に出ていかないように注意する必要がある。そこでドアにをつけるべきではないか、という議論になり、結局それはつけられた。今では暗証番号を入れないと外に出られないようになっている。

ここは福祉施設なので、オープンしている時間帯は、利用者が失踪したり近所で問題を起こさないようにするという責任が生じる。とうぜんをつけたほうが、その責任は果たしやすい。しかしそれは同時に監視でもある。

レッツとしては「監視」はしたくない、というジレンマがあった。

ここでいう責任とはなんなのか。なぜそのような責任が生まれ、なぜそれを社会全体ではなく、レッツという福祉施設が一手に引き受け、ジレンマに悩まされなければならないのか。たとえばこの社会の成り立ちがそもそも、障害者の存在を無視した上で設計されているから、という理由は考えられる。では誰の存在なら無視していないのかというと、これもわからない。もし誰の存在も無視していないのならば、私はもうすこし電車で心地よく過ごせるはずだが、そうなってはいない

 

あるスタッフがレッツのことを「ビオトープ」と言っていた。たしかにここは独自の生態系が保存されているビオトープのような趣きがある。私たちはビオトープを守らなければいけない。しかしどうやったら守れるのか、なにをもって「守れている」と言えるのかはわからない。正解がないので、そのつど考えなくてはならない。ビオトープは閉じた生態系なので、新しい要素が入り込むと、それがどんな変化をもたらすのか予想がつかない。

そしてそれがよい変化なのかどうかも、時間が経たなければわからないし、時間が経ってもわからないままのこともある。

そんな環境なので、別のスタッフから「映像が撮れる人に、一度レッツに来て欲しいと思ってる」と聞いたとき、それは切実な要望だなと思った。外からの視点をそのまま作品化できるような、写真や映像といったメディアを扱えるひとを呼ぶのは、よいことかもしれない。

とにかく最初から最後まで「イベント」づくしで、頭が働かされる材料を提供されつづけ、滞在を終えたあとはぐったりと疲れてしまった。先ほども書いたけど、どこか別の惑星に飛ばされていたようで、経験したものをどう消化すればいいのかもよくわからない。でも私は滞在を終えることができる。あの場所を離れられるおかげで、体験した出来事をまとめることができる。それは私の身近に、誰かのヘルプが絶えず必要なひとがいないからそうできているだけだ。生活は終わらないので、身内にそんなひとがいる場合や、あの場所で働いているひとたちは私のように「滞在が終わる」ことはない。そのうえ利用者はどんどん増えているという。港に着岸することのないまま、未開の海を走り続ける船のように、スタッフたちはずっと身を浸している。船内に浸水があれば何かで塞ぐことはできるし、人が増えたら部屋を増やすこともできなくはない。船首の先に見えるのは水平線のみで、陸に近づいているのか離れてしまっているのか、そもそも陸地があるのかどうかもわからないが、日々起こる問題を解決しながら進むしかない。風が吹き、夜が来て、生活が続くかぎり、波を超えていくしかない。平行に直線的にしか進まない電車とは違う。たった二日間だけの滞在だったけど、しばらく船酔いが抜けそうにない。