《寄稿》岸井大輔さん [ひとインれじでんす2024] - 特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ
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サポートレッツ
《寄稿》岸井大輔さん [ひとインれじでんす2024]

《寄稿》岸井大輔さん [ひとインれじでんす2024]

レッツは「あそびのある物体」をつくり続けている

文:岸井大輔

 僕は毎年浜松に行っていました。レッツを観光するために。2009年からです。コロナで中断していた
ので今回は4年ぶり。
 福祉施設はまず近隣の人権のためにあるわけで、レッツを観光するときはまちから観ることにして
います。浜松は大企業が強いですが小さな名店も多い。天錦もララカレーも幸楽もTHINKも健在。コロナは全国的に個人商店を根こそぎにしたので少し安心しました。新しいカフェや服屋や酒場もいくつもオープンしていて元気な個人はたくさんいるようです。とはいえ閉店した店も多い。駅前の新しいタワーマンションが象徴するように貧富の差の拡大をあちこちで感じました。
 レッツはいまや福祉施設として全国的に高い評価を得ていると思います。15年前は、ほとんど理解されない集団だった。隔世の感があります。でもレッツは達成したという顔をしません。利用者さんが普通にいられるように「世界を変えたい」といっているからでしょう。レッツにいついっても、次どうしようか、と考えています。
 2009年にはじめてレッツと会ったときのことを思い出します。別の仕事で浜松のゆりの木通りを歩いていました。ナゾのミセがありました。多分カフェ。でも端っこで木工をしている人とか、カフェではやりえないことをしている人がたくさんいます。何よりナゾなのは、テニスの審判台とかプールの監視椅子とかがたくさんあることです。2メートルの高さの椅子が20脚ほどある。そこにいるヒゲと眼鏡の男性に「あの椅子はなんですか?」と聞きました。
 「あそこにいる、たけし、わかりますか。」

見ると、紙を粉々にしている男性がいます。
 「たけしは飲み物が入っている器があると倒すんです。私たちは、たけしが他人といっしょにいることができる場所をつくりたい。フラッと来る訪問者とたけしがいっしょにお茶を飲めたらいい。そのために、たけしが登れないところでお茶をしてもらえばいいんじゃないかと考えました。で、背の高い椅子をもらってきたんですよ。小学校とかプールとかテニス場に頼んで。」
 なるほど、お客さんが高さ2-3メートルのところでお茶をしているカフェをやる予定だったわけですね。でも誰も高い椅子でお茶をしていません。普通に机でお茶をしている。
 「そうなんですよ。たけし、この椅子登れるんですよね。」
 あー。
 「でも。お茶をしていて気が付いたんですが、たけしが来たらこうやってコーヒーを持ち上げたらいいんだ、と。そしたら、たけしと一緒にいれるな、と。」
 なるほど?じゃあ、このイスはもう意味がない?
 「意味がないんです。」
 僕はお茶をしている4人の人と、20脚の背の高いイスを見て、声をあげて笑い、コーヒーをもらうことにしました。そして、このなんだかわからない人たちと関わりたいと心から思いました。
 さて、この文章を読んでいる人は、重度の知的障害者とされる「たけし」といっしょにいるのがレッツの変わらないコンセプトなことを知っていると思います。そんなレッツにとって「コーヒーをちょっと持ち上げる」は大発見でしょう。それだけで、誰でもたけしとお茶をできるようになったのですから。そん
な簡単なこと、と思うかもしれませんが、高いイスをもらい集めているときは誰も気が付かなかった。それが実践の面白さです。
 僕は「意味のない高い椅子を残してある」のは重要だと感じました。でも何故でしょう。上記のような会話がおきるからでしょうか。いや、高いイスなんかなくても、この経験は共有できるでしょう。「悩むよりまずやってみないとわからないことがある」とか「失敗の意味を変えるマインド」とか「たけしに徹底的に寄り添おう」とか。でも、こんな話で納得するより、高い椅子がいっぱいある場所でお茶を持ち上げたほうが楽しいですよね。僕はこの楽しさを「あそびがある」と呼びたいです。あそびには、隙間とか無駄とか無意味という意味もある。レッツはいつ
も「あそび」だらけです。マインドや現場の行為だけでなく、そこにおいてある物体に「あそびがある」。
 「あそびのある物体」のあそびはエピソードを知らない人とも共有されます。高いイスがあれば登って遊ぶ人がいる。たけしも。高いイスに登るのは危険?そうですが、これもコーヒーを持ち上げるのと同じです。誰かが見ていればいいんです。
 さて、レッツは何度も引っ越しました。引っ越すたびに「意味のないちょっと高い場所」をつくります。例えば、入野のたけし文化センターは、個室の上に登っていけるようになっていました。僕は「テニスの審判台ですね」と言ってレッツのスタッフさんと笑いあいました。連尺町に2018年にできた今のたけし文化センターにも、高い場所がつくられます。入るとまず、階段とかロープとか高い場所で何かをしている人が目につく。この建物は、リノベー
ションではなく、設計して0からつくったわけですから、高い、少し危ない場所があるのは、レッツの狙いなのです。もはやスタッフのほとんどが、2009年に高いイスを集めたエピソードを覚えていない。でも、あそびは継承される。そして「意味のない少し危ない高い場所」がある限り、コーヒーをちょっともちあげる文化も継承されると僕は思います。
 レッツには、というか福祉には、常に現場と理念があります。この2つをレッツはとりわけ大事にしている。そのため、会議は常にまとまりがなく、なんの結論もでない。解決していない問題を解決しないままに扱うのはとても重要なことです。でもレッツに進捗がないわけではありません。レッツは記憶を継承し、出来事を積み上げてきました。それはあそびのある物がたくさんあり、継承されてきたからではないか、と僕は推測します。
 入野のレッツの職員の仕事スペースはペンキで塗られていない木で作られていました。スタッフのいる空間と利用者さんのいる場所に質的な差がないのです。スタッフのいる場所と、「意味のないちょっと高い場所」が地続きで、遊び場の中で仕事をしているようでした。利用者さんはスタッフルームぎりぎりまで入ってきますし、スタッフも利用者さんを見ながら仕事をしています。
 そんな入野レッツがオープンしたばかりのころ、アーティストの深澤孝史さんが、オーダーに答え木工をするプロジェクトをしました。利用者さん、父兄、スタッフのオーダーに答え、イスやピストルやタナや人形などが木でつくられ、レッツに置かれていきます。元から遊びに満ちた木工空間ですから、このプロジェクトで新たに作られたものと、元からあるものの区別がつきません。「あそびのあるもの」は、一度場に登場すると、そこにいる全てが遊びま
す。スタッフ・利用者さん・外来者関係なく。動物も遊べますし、非生物の物も遊びでおけます。使用目的が決まっている物、例えば道具では、そうはいきません。「あそびがあるもの」は初めから目的があまり決まっていないので、誰でも遊べるのです。そのおかげで、レッツにある、半壊した楽器も、ふとんも、たたみも、全て遊具に見えてきます。深澤のプロジェクト終了後も、レッツにはあそびがつくり足されていきます。利用者さんがつくったもの、イベントでつくったもの。レッツは遊ばれつくり続けられる巨大なおもちゃのようです。
 いま、ちまた公民館があるところに、昔、インフォラウンジがありました。市街地の駐車場の1階。常駐のスタッフ2人と、送られてくるチラシしかない場所でした。チラシがたくさんある場所、というのはまちづくりではすでに定番でしたが、インフォラウンジは、それをクリアファイルにおさめハンガーに釣っていくという道具を開発したのが画期的でした。平たく並べると面積を取るので片づけねばなりませんし、本棚だと探して取り出すのが手間です。インフォラウンジに立ち寄る人たちがチラシを適当に見ます。
 このチラシのラックが画期的なのは、終了したチラシも手に取ることができることでした。一見無駄に見えますが、終わったチラシからでも活動している団体や人の情報を得ることができます。まちでの活動は積みあがらずに消えていくことも多いのですが、ラックがあるだけで情報は残る。そこから会話が生まれまちでの具体的な活動が発生する。それも本は、遊びのあるモノを残していく精神から来ていると思われます。レッツのDI Y精神は、インフォラウンジからのヴぁ公民館へとうけつがれ、展示やイベントのたびに何か新しくものが作られ、過去に作られたものが使われたりしました。手押し車にテレビが置かれ、本が作られ、梯子が組まれる。インフォラウンジにあったハンガー式のチラシラックも違う用途でレッツに残って現役で使われています。
 さて、最近のレッツといえば、利用者さんとの買い物に同行できる観光です。スタッフさんと利用者さんとコンビニにいって、買い物をする。利用者さんがどうしても欲しい物と、残っているお金や、スタッフの愛情(チョコレートだけを夕飯にするのはちょっとなあ、、、)の葛藤がおきる。レッツを訪れた人はそれに同行します。最近のレッツはこの経験をなんとか物体にしようとしているんじゃないか、と思います。それがたとえば「マイ「ベッド」タウンをつくろう」ではないか。

 レッツに久しぶりに登場したアーティストの深澤さんのプロジェクトです。こうしてまちに仕込まれたベッドが、ちまた公民館やレッツの意味を変えます。意味というより、遊ばれ方といったほうがいいかもしれない。レッツは寝ていいし、生活してもいい。ここは福祉施設でも、一時的な居場所でもない、街中のベッドルームでもありうるのだ、と。レッツが中心市街地に連尺町のレッツよりも大きな建物を計画しているという夢物語をききました。それは、街中に常設されたベッドルームでした。
 レッツは知っているのです。おもちゃが楽しければ捨てられることはなく延々と影響を与えるということを。それは理念でも実践でもなく、ただのおもちゃです。すぐに効果が出たり、意味がわかられたりすることはない。でも、世界を変える。
「世界を変える、あそびのある物体」とはアート作品の定義のようなものです。レッツはここにきて、ますますアートのNPOになっていると感じました。